獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

人生の明暗あれこれ

 "照る日曇る日"と言う表現がある。人間生活の悲喜こもごもを天気になぞらえて言うらしいが、それはそのまま人生にも適用されるようだ。喜びや悲しみと一口に言っても、人それぞれの生活や思いは違うので、明るいと感じるか、暗いと感じるかもそれぞれ異なるだろう。或る人にとっては嬉しいことも、違う人には辛い場合もあり得る。

 人生の万華鏡という言葉をご存じの方は若くはないと思うが、幾星霜を積み重ねれば万華鏡も更に細かくなり機知に富んだ色合いを増す。単なる色合いであったものに次第に奥行きが加えられて、文字通りの"千変万化"に変化する。憂愁の念が深まるにつれその輝きもまた妖しさを帯びてくる。

 良きことと悪しきこととで構成されていた幼少期の日々は既に遠く、気づけば善悪を超えた複雑怪奇な世界に足を踏み入れている。青春の日々と同様に、過ぎ去ってみて始めてその存在に気づくのと似ている。何故か不思議に気づいた時には、大抵は過去形になっている。健康もまた同様で、万全の状態が不全の状態に陥って始めて、健康とはに思いが巡るのである。

 当たり前だと思っていた健康がそうでなくなった日に、人は改めて自身の人生に思いを巡らせる。そしてそれが更に終末期に近づくにつれて、取り戻す術がない過ぎ去った何気ない日々を愛しく思うのだ。不可能だと思えば思うほど慚愧の念が深まり、若し取り戻すことが出来るのならいかなる犠牲も厭わないと思い詰める。

 人間誰にでもある死期について、何故かは定かでないが多くの場合は避けて通ろうとする。"生あるものは滅びる"の言葉通り、この世に生まれ出た瞬間から遅かれ早かれ死の宿命を負わねばならない。世を挙げて未曾有の高齢化社会を迎えている今、毎日どこかで誰かが黄泉国へ旅立っている。自分には関係ないと思える人は居ないのである。

 私たち高齢者の高齢者たる所以は、人生が現在形で来年を考え得るか否かだろう。日々の生活が限りない近未来から次第に変化して、半年後になり、3ヶ月後になって、それが更に来月になる。理由を問わず死期が現実味を増す毎に、来月の自分を想像できなくなる。生活単位がドンドン縮小して、今週と来週が目の前にやってくる。

 明日の自分があるだろうかと思い始めて、日常の細々したことに急かされるように時間の経過が早くなる。早くやらねばと焦りが生じて、どうでも良いことなのに真剣に取り組もうとして周囲の家族とあきれつを生じる。誰も自分を理解してくれないと思い詰めて、心理的・物理的に孤立無援感を強める。

 第三者的に見れば大したことではないのに、自分一人が重大事の如くに認識して葛藤する。思うに任せない健康状態が更に拍車をかけて、勝手に自分は今日死ぬのだと思い込むのである。実際に死を経験した人は居ないので、家族や医師に諭されても確証は得られず、多くの場合は仏教が説く「煩悩」の連鎖に陥るようだ。

 「明」と「暗」は対照的であるが、人間は多くの場面で明るい事柄や出来事は当たり前に受け入れて、逆の暗い事柄や出来事は不可抗力とか他人の精にして、自らを振り返ることをしない。目の前を通り過ぎる風の如くに、自分の意思とは関わりないと理解する。当事者意識を欠くゆえに「煩悩」の深みへ嵌まり込むのである。

 目の前に終末が迫っている高齢者は慌てず騒がず、夜が明けて日が暮れるのを黙視している。今日もまた一日生き長らえたと神仏に感謝したい気分になるが、それほど単純に神仏と関わり合うほど善人ではない。取り立てて神仏に祈りはせず明日を迎える。悪夢で目覚めることがないように、病院で処方された弱い睡眠薬を常用している。

 夜が明けて太陽が昇るのも、夜が訪れて太陽が姿を消すのも、それが当たり前のことだとは決して思わない。森羅万象それぞれの営みの中でそれぞれが運命と宿命を負って居て、我が身もまたその一員だと誇張なく認識している。その終わりが近づいているのを肌身に感じながら、今日もまた一日が暮れるのである。