獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

夏本番

 長かった梅雨が明けて、改めて日差しの強さを感じる夏本番になった。街中は急に30℃を超える暑さで大変であるようだ。肺癌再発の"息切れ"で外出が困難な高齢重症患者は、山の上の団地の高層住宅8Fベランダから、夏景色になった眼下のビルや街並みを眺めて過ごしている。朝夕に鳥や虫の声を聴き、目の前の森で冷やされた夏の空気に触れている。

 少し動くと"息切れ"が出て、起っているのが辛くなる。医療と介護制度で酸素吸入装置が設置され、昇降の角度が調整できる介護ベットの助けを借りて、辛うじて命をつないでいる。それでも視力が衰えた眼に夏の熱気と"夏霞"は見えるし、聴力が失われる寸前の耳にはベートーベンのピアノソナタが聴こえる。

 新型コロナウイルスの感染拡大が第2波の様相を見せて、解除された「非常事態宣言」の再発が現実味を帯びている。外出自粛や営業自粛の要請が相次いで発表され、それでも商店や飲食店は閉鎖されない"訳が分からない夏"の訪れである。歓迎する人は多分殆ど居ないと思うが、自然は時に無情に夏を連れてくる。

 人間が人間であることが時に忘れられ、その人間を支える世の中の仕組みが誰のために運用されているのかが分からない妙な時代である。自分のためや他人のために役立つと信じられている社会の枠組みが、必ずしもそうなっていない奇妙な矛盾が随所にある。それでも人間は笑顔を失わずに明るく生きている。例え現実は違っていても、明日はきっと佳い日になると信じて生きている。

 人間が人間を信じることは生きることの基本だ。それなくしては何人も生きている実感を得られない。嬉しくても、悲しくても、喜びに打ち震える時も、人間は自分以外の人間を信じて各種各様の大小の感動を手にする。日々心が揺れ動きながら対面反射で自分の心と命に向き合うのだ。人間は自分以外の人間と向き合うことで己を見るのだ。

 余命が乏しくなった高齢重症患者は、身の回りの小さな"小宇宙"に自然を感じ、人間の営みを感じている。それらの中に微少ながら自分の命を見るのである。燃え尽きて灰に化す寸前の"輝きと熱気"を見出すのだ。人生はマラソンレースに例えられるが、むしろ淡々とした川の流れの如きである。あらゆる人為を超えて、無表情に流れ去る川の流れが相応しい。

 マラソンレースはやり直せるが、川の流れは引き戻せない。元の水に帰すことは出来ないのである。誰にでも普通にある「明日」が、高齢重症患者にはないも同然だ。過ぎていく一瞬、一瞬の時間の煌めきが見えるのである。失われていく"時"に万感を込めて、ひたすら一生懸命「今日」を生きるのである。

 夏はあらゆるものが煌めいて輝く。太陽ばかりでなく、野山に咲く向日葵の花だって、夜空に大輪の花を描く花火だって、更に言えば青春期の男女だって、それぞれに精一杯命を輝かせる。眼に眩しく、心に眩しい季節だ。「青春時代は後でしみじみ思うもの」との歌があるが、人間にはそれらを受け止め記憶する能力が備わっている。

 川の流れは無情でも、夜空の花火を映して一瞬光り輝く。人間の命も同様に周囲の人々の心で光り輝いて、長く記憶されたいものだと願わずには居られない。その時のために「今日」を生きよう。夏霞の向こうに望まれる低い山々や、更にその向こうに広がる遙かな海を思い描こう。美しいものに感動する心を失わずに、「今日」を生きようと思っている。