獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

外出自粛と人間の尊厳

 随分前から自主的に外出を自粛している。肺がん再発患者なので慢性肺炎状態だ。ただでさえ息苦しく、時折咳き込むと呼吸困難になる。万一コロナ・ウイルスに感染すると三日と持たずにあの世とやらへ旅立たねばならない。最悪のシナリオはそればかりではない。容態が急変して救急車のお世話になっても、重篤な既住症患者ゆえ受け入れる病院がないのである。

 通院中の大学病院はすでに病床が満杯で、私を受け入れる場合は比較的症状が軽い入院患者を無理に退院させねばならない。普通病床では対応が困難なので、常識的に判断すればHCUで受け入れるしかない。応急処置で病状が少し安定すればICUへの移動も可能だろうが、体力が極限状態の高齢患者なので、どこの病院であっても決して歓迎はされないのである。

 そこまで患者自身が知っているが故に、気を抜いて外出するなど到底できない。単に自分自身の問題では済まないのである。自分のために他人に犠牲を強いることにどこまで耐えられるか。人間としての尊厳が厳しく問われねばならない。どう贔屓目に考えたとしても、老い先短い高齢者のために若い有為な人材を失ってはならないのである。

 現在世界がその問題に直面して揺れている。平時に理想を語ることは誰にでもできるが、非常事態となった今何を筋目に物事を判断するかである。リアルタイムで次々に人間の命が目の前で失われているのである。格差社会の貧富の差や人種差別による医療機会の不平等など、待ったなしの決断を迫られている。机上の理想論が役に立たず、多くの現場で煩悶を繰り返している。

 他人の危難を我がこととして認識し、その救済にどこまで自己犠牲を発揮できるかは難しい問題だ。語るのは易くても、実際に行うのは容易なことではない。議論の多くは平時の議論で、議論のための議論の範疇を超えていないからである。非常時に必要なのは理屈ではない。自らが血を流す覚悟が問われるのである。

 人間は得てしてエゴイストだ。いざことに望む段階になると、それまでの理想論は霧散霧消して姿を消す。他人はどうあれ、自分だけは生き延びたいと願うのが人情だろう。たとえ他人がどんなに痛さを感じたとしても、自分だけは感じずにいたいと願うだろう。エゴとエゴとがぶつかり合って、その結果何が生まれるだろうか。

 コロナ・ウイルスは微少な細菌だが、この目に見えない小さな微生物に人間が揺さぶられ、かつ振り回されている。殆どの人が他人事と捉えて、実感が湧かないままに対応を迫られている。自分自身が命を落とすとは誰も考えず、浮遊空間の出来事だと認識しているようだ。必ずしも"地に足がついていない状態"で、自分の前から過ぎ去ってくれればと願っているようだ。

 若し自分が感染者になったらとの、切迫した危機感をどれほどの人たちがお持ちだろうか。家族や近親者などに感染者が出て、現実感が伴ってからでは遅いことに気づかねばならない。私のごとくに常に生死の狭間にある者は、せめて自分事で他人に迷惑が及ぶことを避けようと思わざるを得ない。それが精一杯の尊厳であり、目一杯の誠意なのである。

 少なくとも私のために誰かが退院させられる事態は避けねばと思っている。その結果として若し落命することなっても、自分に嘘をつかずに済む分だけ尊厳が保たれると考えている。人間の尊厳とは、その程度のささやかな"思いやり"だと私は思っている。