獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

桜の季節

 昨日「桜あんパン」について書いた。途端にアクセス数が急上昇した。別に発売元の銀座木村屋總本店の回し者や親戚ではないので、正直びっくりした。ごく有り触れた「あんパン」の話で、取り立ててどうと言うことはないつまらない話なのに、多数の人達が興味と関心を持たれたことが逆の意味で私には新鮮に感じられた。

 「あんパン」から話は逸れるが、私が住む東京多摩南部でも桜が咲き始めた。まだチラチラ程度だが、それでも早いところでは4部咲き程度に咲いている。大きな古木の場合は立ち止まって下から見上げねばならないので、仕事や学校で忙しい人達は大人も子供も気づかずに通り過ぎるのを多く見かける。

 人間として生きていて何が大切かは人それぞれに違うだろう。毎年忘れずに咲く季節の花など取るに足らないと思われているのかも知れない。暫く咲き始めた桜の下に留まって見ていたが、殆どの人が急ぎ足で気づかずに通り過ぎる。桜の花は言葉を発しないので、吹く春風に身を任せながら枝ごと揺れているだけだ。

 顔に当たる風が生暖かく感じられるこの季節に、木々や草花の芽吹きにさえ気づかないくらい人間生活が忙しくなったのだろうか。それほど"あくせく"して日々を生きることが人間としての幸せなのであろうか。現代人は概して無表情な人種が増えた。スマホからは目が離れないが、その小さな画面に数多い幸せが詰まっているとでも思っているのだろうか。

 日に日に暖かくなっていく季節を感じず、吹く風の臭いも感じずに、綺麗に咲いて語りかけるような桜の風情も無視して、ただひたすら何を急いでいるのだろうか。それが時代さとでも言いたげに、他人と同じように考え思って、他人と同じように生きる。実感や実際の手触りはなくても、そうすることが幸せにつながるのだと信じて止まない。

 多少前後しても桜は咲くことを決して忘れない。喜怒哀楽の全てを飲み込んで無言で咲き続ける。人間が気づこうが気づくまいがお構いなしに、黙って咲いて黙って散っていく。人間が群れを成して飲食にうつつを抜かそうが抜かせずとも、花としての生命力を精一杯発揮して、圧倒的なクライマックスを迎えて一斉に散る。

 私達人間は花見と称して飲めや歌えやのひとときの宴に酔いしれる。どんなに盛り上がろうと、盛り上がるまいと、咲き誇る桜には一切関係ない。静かに、時には激しく咲き誇るだけだ。そんな私達日本人は桜の向こうに何を思い、何を感じているのだろうか。物言わずそこにあるだけの桜だが、若しかすると桜は私達自身かも知れない。