獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

弥生の木々と人間模様

 弥生3月がスタートした。いつもにも増して出会いと別れが交錯する季節である。目の前の森も葉を落とした"枯れ木の風情"から、下草が青みを増して木々の蕾みが心なしか少し大きくなったように感じる。時に吹く強い風に枝が揺れて、しなりながら生きているのを表明している。

 自然は同じ周期で命の営みを見せるが、私達人間は季節が変わっても服装が変化するだけで、必ずしも進歩や成長が望めるわけではないようだ。木々の如くに例え僅かでも成長しているだろうか。己を顧みても些か心許ない。相も変わらず吹く風に背を向け、降る雨を傘で避けながら、変わらぬ歩幅で歩き続けるだろう。

 何の変哲もない世を嘆きながら、自らがその変哲のない世を招いていることに何人の人が思いを致すだろうか。他人の行動や景色はよく見えても、自らの心には気づかないのが人間だ。公共という概念は高校や大学の授業で教わっても、いざ社会人になるといつの間にか自分中心に物事を考え、それが普通になる。成長ではなく後退であることに、意外なほど気づかない。

 自分にとって好都合なことは自分の功績で、不都合なことは他人や社会の精だと自分を納得させる。何も言わず、何も語らずとも、木々は確実に年々成長する。見上げる枝先は去年より高くなっている。人間である自分自身はどうか。心の幅や奥行きが拡がったり、深まったであろうか。他人を見る目と同じ目線で自分を見れているだろうか。

 思索する時間が年々減少して、気がつけば退屈凌ぎにスマホをいじり、考え感じる能力を放棄してテレビにしがみついている。そんな生活が続いては居ないか。"暇つぶし"や"退屈凌ぎ"だと嘯いて、気づけば自分で自分に「言い訳」ばかりしている自分が居ないか。成長に背を向けて、どんどん後退している自分が見えるだろうか。

 木々は笑わず怒りもしない。無表情に同じ場所に立ち続けている。それでも不平・不満を言わず、尚且つ少しずつ成長している。「木を見て森を見ない」という言葉があるが、木を見るだけでも己の人生が見えるものだ。その全体である森はさながら人間社会だろう。心を少し研ぎ澄ませれば、目の前の木の向こうに様々な世界が見える。

 出会いと別れは人間社会のみならず、全ての生き物に共通する摂理だろう。弥生3月はふとそんな感慨が湧き起こる季節である。