獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

気づきの美学

 世の中の物事はすべからく、気がつくか否かで見え方や感じ方が大きく異なる。豊かで便利だと言われるこの時代は、その豊かさと便利さに慣れ過ぎて人間性が後退しているようだ。代表例が暑さや寒さで、天然の気象条件に合わせて生活するのではなく、自らは何もせず空調の善し悪しのせいにする。

 街で目にする人の多くは老若男女を問わず、実にちぐはぐな格好をして平然と取り澄ましている。ほんの少し気配りすれば自分に自信が持てるし、余所目にも"格好良く"見えるのにと、老婆心ながら思ってしまう。歩く姿勢も人様々で、思わず目が向くような"格好良い"歩きをする人にはまずお目に掛からない。

 それでいて高額な会費を払ってスポーツジムに通う人たちは大勢いる。豊かな時代とはこうした趣向を指すのかも知れないが、何かしら自分が工夫して気配りすることが忘れられているように思う。他人の手助けを必要とせず、お金も掛からないのに、何故かしら皆が宣伝に乗せられて同じことに目を向け実行している。

 歩く姿勢や洋服の着方は極めて個人的領域だ。自分次第でどうにでも変えられるし、変える楽しみもある。移ろう季節ごとに少し気配りすれば、自然を身近に感じて変わる季節が楽しくなったりするのに、「売るための情報」ばかりに惑わされてはいないか。必要であるなしに関わらず、とにかく"売ること"が目的で、"買わせること"で経済成長を維持する時代だ。

 毎日の生活は紛れもなく自分自身の人生なのに、モンスターの如き企業や業界に操られて追われるように生きてはいないか。無理して早足で歩くよりも、背筋を伸ばしてスムーズな体重移動を心がければ自分が良く見えて、余所目にも自然に"格好良く"見える。オシャレは他人のためにするのではなく、まず自分自身が楽しくなければ意味がない。

 配色の妙や形のバランスを工夫することで、ほんの少し生活に彩りを添えられる。心と気持ちに"ゆとり"が生まれる。その心と気持ちの"ゆとり"が、自分を見つめ直す"きっかけ"を提供してくれる。見逃していた様々なことに「気づかせて」くれるだろう。無駄な出費をせずに、心も体も"豊かに"なれる筈である。

 美しくあることは心が美しくなければならない。豊かであることは心が豊かでなければならない。そう思い、そう感じる心を養わなければ、いかに高額の費用を支払っても成果は得られない。「本物の美とは何か」に近づけば、自ずと"本物の豊かさ"も理解できよう。何気ない日常の中で思わず目が向く"格好良さ"は、ほんの少しの創意工夫で得られる。

 ファッション・モデル業界で「神様」と讃えられ、"伝説"となった人たちの日常は、決して特別ではなかった。何気ない所作の中に現れる言うに言われぬ"格好良さ"は、一夜漬けではない弛まぬ努力の結果である。人一倍鋭い感性の持ち主で、他人に指摘されずとも自ら「気づく」創意工夫が生み出す天性のものだ。

 私たちが生きるこの時代は、過剰な有害情報が溢れて「思考停止」を余儀なくされている。豊かさと便利さに慣れて、自ら「気づく」創意工夫が"棚上げ"されている。自分の姿勢や服装にも気配りできない人間が、他人や社会を批判できようか。皆が楽しくなる社会とは、そこに生きる一人一人が自分に責任を持ち、まず自分が楽しくなければならない。

 鈍感な時代に鈍感な人間が溢れても、決して楽しい時代や社会にはならない。小さな物事の連鎖が社会を形成し時代を作っていることを思えば、「気づくこと」の是非はその社会や時代を変える無限のパワーを秘めている。美しくありたいと願う人間社会の永遠のテーマであるゆえに、私は「気づきの美学」と呼ぶのである。