獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

明日は誰もが高齢者

 昨日定期検診で大学病院へ行った。雨が降ったり止んだりの肌寒い日だったが、構内にあるバス停に降り立つとそこから既に混雑していた。見かける殆どの人たちは高齢者で、自分もその一人であることを棚に上げて「相変わらず年寄りが多い」などと、同行している老妻に話しかけた。

 病院内に入ると各科の外来待合室は順番待ちの患者が溢れていて、予約通院であっても予定通りの時間に受診するのが困難だった。毎度のことで患者として馴れているのでどうということはないのだが、いつもながら高齢化社会の断面を見せつけられる。殆どの高齢患者にはご亭主や奥さん、息子や娘さんと思しき家族が付き添っているのだが、中には単身で訪れている高齢患者も珍しくない。

 先の台風19号による水害などでも、一人住まいの高齢者が被災して亡くなっているのをニュースで知らされた。都会や地方の別なく現在は一人住まいの高齢者が珍しくない。豊かで便利な世の中とはこういうことなのかと考えさせられるが、それが人間生活にとって良いことなのかどうかが問われている。各自治体の地元行政は懸命の努力を続けているが、立法府や国家行政はその努力に追いついていないようだ。

 人それぞれに個別の事情があって、やむなく一人住まいを続けている高齢者が多いと思う。豊かで便利になった社会から家族の絆が薄れ、人それぞれが自分中心になった。自分のことで手一杯で、家族や他人を思いやる心情が想像の世界になっている。頭で考えて理解は出来ても、実際に自己犠牲を伴う家族生活や同居生活は遠のいた。

 大学病院に到る行程でも電車やバスの車中で、若い学生と思われる人や中高年の男女が平然と着席していて、その前に立って懸命につり革に摑まっている高齢者が居た。どこかで何かが違っているように感じるのは、同世代高齢者の取り越し苦労なのであろうか。戦後の貧しい暮らしの中で、それでも心通じ合えた時代があった。決して孤立した「一人」ではなかったのである。

 日本人て何だろうと、そんなことを考えさせられる場面が多くなった気がする。グローバル化が言われて世界が身近になったというが、経済戦争の勝者になってカネを得ることだけが人間生活の理想なのか。それがいつの間にか目的化して、主体である人間が見失われては居ないだろうか。主体と客観が逆転してみんなの幸せは考慮されても、それが「個」の局面や場面に到っているだろうか。

 足取りが覚束ない高齢者は傍目にも哀れを感じさせる。それが一人であれば尚更である。子や孫などの家族に付き添われて微笑ましい高齢者がいる一方で、遅々として歩む高齢者には色々なことを考えさせられる。個人の責任だとか、地元の責任だとか言う前に、何かが見落とされていると思うのは私だけであろうか。