獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

人の世のつれづれ

 「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」と詠ったのは林芙美子で、「幾山川越え去りゆかば寂しさの果てなむ国ぞ今日も旅行く」と詠ったのは若山牧水だと記憶している。いずれも人の世に生きることの苦境を詠い上げている。事ほど左様に人生は苦渋に満ちている。それでも人間社会は生きることを強いて、そのために成り立っている。

 真っ当な世の中という表現がある。価値観が多様化して正邪が入り乱れている現代社会では、何が真っ当で、何が真っ当でないのか咄嗟に判断するのが難しい。人それぞれの立場でその基準は違うだろうし、考え方や感じ方も千差万別だから、これが正義で真っ当なことだと指摘されても多くの人は頭を傾げるだろう。

 それでは真っ当な世の中一つを考えるのも容易ではない。況してや真っ当な人間や真っ当な生き方となれば尚更である。それでも人間は生きねばならないし、現実に生きている。正義と邪悪を区別するのは容易だ。過ぎ去って過去となった事柄を判別することは出来ても、実際に今生きていることを正邪で判別するのはかなり難しい。

 現在進行形の事象を正しいのか、正しくないのかをキチンと弁えて生きている人は少ないだろう。曖昧模糊とした状況の中で、それぞれが手探りで今日を生きているのが実態だろうと思う。私自身もその一人で、日々迷い、悩みながら80年を生きた。思い浮かぶ感慨は様々あるが森羅万象が過ぎ去ろうとしている今考えると、真っ当であったとの思いが強い。

 言葉や感情は都合良く出来ていて、自分なりの想いに寄り添ってくれる。だから自分が歩んだ道のりや、現在身を置いている境遇を真っ当でないと認識する人はまず居ないだろう。利権にしがみついて必死の思いでカネを得ている悪徳政治家だって、自分が行っているのは正義そのものだと信じているであろう。

 現在私たちが生きているこの時代と、この社会状況が真っ当であるか否かは現時点では分からない。良く言われる言葉が「後世の歴史家が判断する」というものだが、それとて現場を見ていない後世の歴史家がどの程度理解するかに疑問がある。現在進行形最中の私たちに白黒つけろという方が、土台無理な注文である。

 自分か生きている時代や社会状況すらまともに理解していないのに、自分の生き方が真っ当かどうかなど判断出来るわけがない。それぞれが勝手に自分は真っ当だと思い込んで今日を生きている。「真っ当」という言葉は至って便利で、正しいか、正しくないかを、無理に結論づけなくても、それなりの正義を見出せるし感じることが出来る。

 現代は花の命が決して短くなくなった。幾山川を越えるのも新幹線なら一瞬だ。古い時代の感傷とは遠くなったが、人間が宿命的に抱えている問題は多くが変わらず引き継がれている。少しでも真っ当でありたいと願いながら、時代の潮流に流され、他人の思いに揺さぶられながら日々を生きている。

 真っ当な世の中で真っ当に生きるということは、存外に難しいことらしい。取り敢えずはどこかで聴いた歌の文句じゃないが、「ありのままで」生きてゆく他あるまいと思う。激流となって流れる潮流に竿を差すことが、どれほど困難であるかは先の台風19号が教えてくれた。人間という存在がどれほどのものであるのかも、指し示して余りあった。

 真っ当であろうとなかろうと、取り敢えず私たちは今日を生きている。明日はどんな日になるのかは誰も知らない。「陽は昇り陽は沈む」のである。人の世はどれほど進歩し、そこで生きる人間はどれほど賢明になったのであろうか。