獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

老人日記(2)

老人とて年の瀬が押し詰まると何かと気ぜわしい。恒例の病院通いは年末の休みに入る前にと誰しもが望んで、それでなくても混雑している待合室から患者が溢れている。9割前後が同類の高齢者で、元気そうな人も、しおれた花の如き人も、慣れた様子で診察の順番を待っている。

 毎度そう思うが診察する医者の側は大変で、際限なく押し寄せる患者に圧倒されて昼食を摂る間もない。何人かのベテラン医師に尋ねたら「もう何年も昼食を摂ったことがない」とのことだった。それが習慣化しているので別段不都合はないのだそうだが、下手をすれば医者が病気になっても可笑しくない妙な"盛況"である。

 私は通院するのにバスを利用しているが、最寄り駅まで4個のバス停を乗り越す。利用するバスは近くにある帝京大学構内から折り返して、最寄り駅の京王線高幡不動駅へ行く。利用するバス停へ到着した時点で車内は学生客でほぼ満員状態だった。午後の早い時間であったため学生たちの帰宅と重なる不運に気づいたが、"後の祭り"だった。

 やむなく寿司詰め状態のバスへ乗ったが、最寄り駅へ着くまで車内は若い学生客が全座席を占拠して、私を含む高齢者全員が立っていた。車内アナウンスが「帝京大学の学生はお年寄りや体が不自由な人が乗車の際は席を譲って下さい」と流れても、着席している学生たちの殆どがスマホに夢中で周りを見ようとせず、気づいても「見ぬふり」をして平然としていた。

 先稿で「気づきの美学」について書いた。物事に気づくというのは誰かに指摘されて気づく場合と、自分自身の感性で気づく場合とがある。一見するとどちらも大差なく思えるが、実際は大きく異なる。「鈍感」と「敏感」と区別することも出来るが、それ以前の人間性が根本的に違う。「敏感タイプ」を人間だとするならば、「鈍感タイプ」は悪いが野獣である。

 帝京大学の悪口を言うつもりは更々ないが、率直に申し上げるならば「若い野獣集団」だと言わざるを得ない。30~40人乗車している中で、誰一人として席を譲ろうとする者は居なくて、多くの学生たちは体が弱っている高齢者が立って乗車しているのを「見て見ぬふり」をしている。

 学生たちが日本人なのか、それとも中国人なのかは定かでない。だから"一束一絡げ"で批判するのは的外れかも知れない。けれどもこれらの諸君たちが高等教育を受けて、一体何を学ぶのだろうかと疑問が湧いた。一応人間の顔を持ってはいるが、その中身はルールもマナーも心得ない野良犬や野良猫同然である。

 この種の粗野な人間に教育は如何ほどの意味を成すのか。科学知識は大いに学ぶべきことだが、それが人類社会に寄与する段階に至れるのか疑わざるを得ない。現代は教育自体が"利益"を生む産業構造になっている。蛍雪の時代は遙かに遠く、家庭や社会の手厚い保護を受けて豊かな学生が増えた。それを素直に喜べない大きな矛盾を孕んでいる。

 ここで教育の是非を論じてもしょうがないが、何やらこの国の"豊かさ"の正体が垣間見えた光景であった。「群れて流されて」他人と同じにしていれば責任を取らずに済む、国会が見本を示して憚らないこの国だから、それに同調するのが現代人の常識なのかも知れない。「見て見ぬふり」を決め込む学生たちが"常識人"で、その光景に違和感を覚える高齢者は"周回遅れ"なのであろうと渋々納得した。

 駅のエスカレーターは相変わらずで、遠慮がちに左側へ寄って立つ高齢者を押しのけるように若い学生集団が早足で駆け上がる。それが「当たり前」で「普通」なのだと言わんばかりである。高齢者ドライバーの交通事故同様に、悲惨な事故が実際に起きないと誰もルールやマナーを顧みようとしない。

 最先端とされる科学技術は、一定の段階へ到達したら一度「振り出し」に戻る勇気を持たねばならない。高齢者ドライバーの運転免許返納が足踏みしている現状は、公共の利益よりも個人の我が儘が優先される現代社会の縮図だ。いかなる理由があろうと車がない時代へ立ち返らねば、「便利中毒」を脱することは適うまい。

 「危ないもの」や「無理なもの」が野放しにされて、科学技術でそれに対処しようという「自動運転」や「自動ブレーキ」は、率直に言えば"あだ花"である。殺生を奨励するが如き現行制度は、この国が"利益"のためならば他人を犠牲にしても構わないと表明しているとも受け取れる。

 ルールやマナーを心得ない多くの学生たちが築く社会とは、そして己の自分勝手を顧みようとしない無謀な高齢者ドライバーが跋扈する現実社会とは、人間が人間であることをいつしか忘れた帰結であるように思えてならない。年の瀬が押し詰まった街は、年明けのオリンピック騒ぎで多くのことが無視されて喧噪に変わっていくのだろう。