獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

群れて流されて

 現代社会は好むと好まざるとに関わらず、否応なしに「群れて流される」時代のようだ。時代の趨勢に押し流されてどこへ行き着くのか分からないままに、大河に浮かぶ木の葉のように漂い流されていくままに身を任せている。多数派に同調していれば何か事が起きても責任を問われることはない。無責任を決め込んで楽に生きられる。

 「徒然なるままに」「群れて流されて」果てはどこへ行き着くのであろうか。誰しもが漠然と想像はしても、どこへ行き着くかは誰も分からない。かつて「過去・現在・未来」と夢を描き、その夢に向かって邁進した時代があった。余計なことを考えている余裕はなく、ひたすらその夢を信じて前へ進んだ。

 日本人が日本人としての共通したアイデンティティーを持ち、誰言うとなく共通の目標へ向かっていた。生きるために学び、生きるために働いた。その結果が未曾有の敗戦から起ち上がり、現在の「豊かな時代」へと導いたのである。ただ呆然として「群れて流されて」いたのではなく、自分自身や家族のために懸命であったのだ。

 社会を信じ、時代を信じて、無我夢中で小走りに歩を進めていた。善悪の人間性があり、社会正義がそこには存在していた。それから長い年月が経過した。「豊かで便利な時代」は実現したが、共通していた筈の日本人のアイデンティティーをどこかへ置き忘れて来た。個性の時代だと強調されて、勝手気儘な"私欲"を「個性」だと勘違いする時代錯誤が日常化した。

 善悪を弁えた人間性や社会規範、社会正義がいつの間にか脇役にされて、"野獣性"を剝き出しにした「私欲」が主役に躍り出た時代を誕生させた。多くの科学知識が無力化し、近代経済学は"金銭の奴隷"と化した人間社会を生み出した。科学のための科学や、知識のための知識が跋扈し、根源的な人間生活は片隅へと追いやられている。

 「群れて流される」傾向は民主主義の副産物でもある。多数派が実権を握る民主主義の大原則が、理想とかけ離れた"富の独占"や独裁体制"に変貌して現実社会を支配している。社会制度の多くは権力者の思うがままで、法制度さえその"私欲"には歯が立たない。直接的ではないにしても、多くの社会現象は殆どが"私欲"の産物だ。

 カネが万能ですべてを支配する近代資本主義は、すべての物事が"欲得"から発して"欲得"に帰する。多くの場面で人間性を否定して"動物本能"の趣くままに活動する。行政や司法などの公共性は、常に権力者の意向を忖度して左右される宿命を帯びる。公共性よりも"私欲"の利益が最優先されるのである。

 誰もが真実や本質を考えずに「群れて流される」結末は明瞭だ。左派とか右派とか呼ばれた政治思想は最早形骸で、政治の舞台は別名が"欲得戦争"である。政治的使命を考える候補者など、"金の草鞋を履いて探しても"発見するのは至難だ。誰かが誰かの利益のために動くだけで、公共性などは"お題目"に過ぎない。

 「徒然なるままに」「群れて流される」のは"楽ちん"である。何も考えずに大勢の趣くまま身を委ねるのが現代社会の"常識"であるならば、それを否定するのは"非常識"の"そしり"を免れ得ない。他人の有り様を真似て"同じふり"をして自らを嘯く時代に生きて、「結果オーケー」と自信を持って自らに答えられるだろうか。