獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

便利な社会の不便な現実

 現代社会はありとあらゆるものが身の回りに溢れ、どれが必要でどれが不要なのかに迷うことが屡々である。情報などの目に見えず、手触りを確かめるのも難しいものを含めて、真偽が定かでないあらゆるものが怒濤のように押し寄せてくる。折からのIT化社会はそれを取り込める人と、取り込めずに利用できない層を生み出している。

 便利だと重宝されるスマホだってその機能を十分使いこなせる人と、その機能さえ理解できない人とに分断されている。原初に立ち返ってそもそも便利とは何かを考えねば、現代社会に「生ける屍」にされかねない。時代は非情で何もせずとも、何もしないが故に潮流から除外してどんどん加速する。

 現代社会の便利は必ずしも世の中の大勢で決められてはいない。商品として売ることが最優先され、売って利益を得られるものが「良い商品」で、どんなに優れた機能を備えていたとしても売れないものは価値を持たない。この原理と論理はそのまま人間社会にも当て嵌まり、人間としての有用性を決しているようだ。

 商品としての中身は必ずしも消費者に分かり良いとは限らない。生産者と販売者の側の論理が優先されて、せっかくの機能や使い勝手が理解されていないものが多数ある。価格の高低を問わず圧倒的に支持され歓迎されるものもあるが、なぜ人間社会に登場したのだろうかと思わず疑いたくなるものもある。

 便利という言葉は実に便利で、使えば便利であることは疑いないが使わなくても良いものや、使う必要がないものが多数含まれている。もっと言えばそもそも存在しなくても良いものの類いである。売るための情報が世の中に溢れ、何やらよく分からないままそれらの情報に背中を押されて、便利さを使わなくてはいけない気分に支配されていないか。

 機能を含めたその商品そのものを十分理解しないままに、何となく世の中の気分に流されて本来は必要ないものを使ってはいないか。便利さを享受するのとは正反対に、何やら訳が分からない妄想に苛まれてはいないか。無理に現代風や現代人を気取っても、実態は凡そそれとかけ離れた「時代からの孤立」に陥ってはいないか。

 便利であることは私たちに無言のプレッシャーを与え続けている。あれもこれもと次々色々な商品を生み出して、使わなければ"時代遅れ"だと勝手に喚き散らしている。人間社会の信義がいつの間にか真偽に取って代わって、正邪の垣根が取り払われて自由という名の横暴が堂々と罷り通っている。唯一の正義はカネである。カネを持つことが即ち人間の価値を左右する。

 何が便利で、何が不便かは、人それぞれだろう。戦後の貧しい時代には極めて貴重であった便利が、豊かな現代では逆の副作用を伴って私たちの身近にある。ありとあらゆるものに取り囲まれて、「便利な不便」と付き合ってはいないだろうか。人間社会の主体と主人公は自分だと気づけば、不要な便利が整理されて幾分なりとすっきりするだろう。