獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

人の世のつれづれ

 世の中が変わると人も変わる。変わって良いものがある反面、変わっては困るものと変わって欲しくないものがある。人それぞれに色々な思いがあるだろうが、時代は容赦なく無情に変わり続けている。

 科学技術の進歩によって人間の暮らしは格段に良くなった。しかし、私たちの心はどうであろうか。豊かで便利だとされる現代に、それに見合っていると言えるのだろうか。人間の暮らしが豊かで便利になるほど、心は逆向きになる傾向が生じるようである。進歩や進化から取り残され、停滞したまま時には悪臭を放つ場合さえある。

 万物の霊長とは言えAIではない生身の人間である。計算通りに正解が出るわけではない。喜怒哀楽に加えて憎しみや恨みの感情を持つ。心の世界は永遠に正解を見出せないテーマが数多くある。どれもが正解であり、どれもが不正解な、不確実世界に私たちは生きている。暮らしが豊かで便利になるほど、追いつけない心が悲鳴を上げている。

 現代社会は"カネ万能社会"である。富の追求が飽くことを知らず蔓延して、経済成長という名の神話がすべての人間の生きる目標になっている。その是非はともかくとして、高度にシステム化された社会は自由を謳いながらその実は自由を封殺している。個性豊かに人間らしく生きるとは言葉のみで、時代の流れに棹差すことを許してはくれない。

 誰しもが同じ目的を持って、同じ努力をしなければ落伍者になる。受験生ばかりではなく、容赦ない大きな社会システムの"篩い"に掛けられる。富む者と富めない者がそこで選別され、「幸せ」になれる者と、なれない者の白黒が概ねハッキリする。格差社会の誕生は資本主義社会の必然だろう。言うなれば現代社会の常識でもある。

 富める者は益々富んで、貧しい者は益々貧困に追い込まれる宿命社会に生きて、我が身の不幸を嘆いても何も始まらない。そこから抜け出す術があるとすれば、自分を取り巻く社会システムを知り、その是非を選挙の際の一票に反映させる遠大な手段しかないのである。時代に押し流されて、無為に嘆いていても世の中は何も変わらないのだ。

 自分だけが不幸で、他人は皆が幸せそうに見えたり思えたら、敢えて他人と同じことをせず、誰もが敬遠してやらないことをやってみる手はある。世の中の常識やマナーに逆らって、自分なりの独自の世界を築くのである。結果が吉と出るか、凶と出るかは、実際にやってみないと分からない。常識やモラルがどの程度の信憑性を持つかを、再確認する効用もある。

 自分以外の誰かが決めた社会システムの枠組みの中で生きるか、敢えてそこから一、二歩踏み出してみるかは、人それぞれの判断だ。ある人には好都合であっても、それが必ずしも自分にとっても好都合かどうかも分からない。まるで雲を掴むような話なので、「暗中模索」という言葉はこのことなのだろう。

 他人がやらないことをやるというのは、その「暗中模索」を敢えてやることだ。他人と違う実感を得ようとしたなら、言う以上の覚悟と決断が必要である。善し悪しは別として結果が判明するまでは、恐らく誰にも理解されないだろう。取り敢えずの敵は他人ではなく自分自身だ。言いようのない孤独感にどこまで耐えられるかである。

 世の中のことは大抵が自分に辿り着く。どんなに大きいと思えていたことも、結局は回り回って最後は自分に帰着する。すべての物事は自分から発して、自分に帰り着くように出来ている。結論を言えば「自分次第」である。自分がどう感じ、どう思うかで、世の中はまるで違って見える。幸せと不幸せもまた同様だ。

 どんなに世の中が豊かで便利になっても、人の心が豊かで便利になる訳ではない。外形と内面の落差が大きくなるほど、人は自分だけが取り残されていると感じる。必要以上の寂寥感に苛まれて、身勝手にそこから抜け出したいと願うのである。例え他人が傷つこうと、自分だけは無傷で逃げ出そうと願うだろう。

 人の世のつれづれは誠に人の世のつれづれである。誰もが他人はよく見えるが、肝心の自分には気づかない。知らず知らず他人と比較して、自分だけが不幸を背負っていると思いながら日々を生きている。さて天気は、明日もまた晴れるだろうか。