獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

軽い時代

 20世紀後半から世界は「軽い時代」に突入したようだ。資本主義の断末魔「市場経済」によって、曲がりなりにも「豊かさ」を手にした人々は、その渦中で生じた「格差社会」や「社会の分断」をも手近なものとして受け取った。何故か"豊かさを実感できない"ままに、何かに急き立てられるような"忙しない時代"に生きることを余儀なくされている。

 資本主義の「市場経済」は自由の名の下に、富の攻防を繰り返す過程で様々な副産物を生み出した。富める者は更に富んで、貧しい者は更に貧しさに喘ぐ図式を日常化し、そのまま「強者」と「弱者」を認知する現代社会を誕生させた。科学技術の進歩と発展によって、"額に汗する労働"が衰退し、空調された室内でパソコンに向かう新しい労働形態が一般的になった。

 種を蒔き、苗を育てて、水田に植え、照る日も曇る日も、雨の日も風の日も、ひたすら辛抱強く稲を保護して米を収穫してきた私たち日本人の暮らしが変わった。「農耕民族」という言葉を、現在どの程度の日本人が知って居るであろうか。学校教育が時代と共に様変わりして、私たち日本人の暮らしの原点を知り考える学習から、テストでの点数稼ぎのための"暗記学習"が主流になった。その技術を伝授する学習塾が全盛で、その巨大な利権が今や学校教育の現場を席巻している。誠に妙な時代である。

 私たちが毎日の生活で口にしているお米や野菜・肉や魚が、どういう生産過程を経て私たちの家庭の食卓に上がっているかを、果たして何人の日本人が正確に知っているだろうか。どれだけの人々が生産に携わり、それぞれの過程でどんなドラマを経て私たちに届くのかを、自分の生活なのに実状をどれだけ知っているだろう。愛や恋を語るのもいいだろう。最新の流行を追うのもまたいいだろう。けれど何かが違いはしないか。

 私たちは果たして自分のことをどれだけ知って居るであろうか。自分自身は何ら貢献しなくても豊かになった社会で、何の疑いもなく当たり前に生きて暮らしている。高学歴社会だと言われて、何を学ぶのか定かでないまま大学へ入り、そこで自分自身の原点や暮らしを学んだであろうか。学ぶことの意味を理解しないまま、テストが終わると綺麗さっぱり忘れ去る学習を長く続けてきて、本当に自分の知識が豊富になっただろうか。

 自分の暮らしの足元が覚束ず、何やら"訳が分からない"小難しい理屈を教え込まれて、訳が分からないままに「知ったか振り」していないか。理解した気になっていないか。みんながそうしているからと、疑うことなく同調していないか。知らず知らず"群れて流れる"習性を身につけていないか。難しい理屈を知らなくても、我と我が身の"程"を知れば生活が見えて来るし、自分や家族の人生も考えられる。どう生きるかの基軸が定まる筈である。

 自分の目で見て、自分の耳で聞いて、自分の心で感じて、そして自分の頭で考える。人間としての原点はそれだけの単純なことだ。物事の善悪や正邪の判断は、他人の受け売りではない自分自身の判断で行い、自分が決めたことに責任を持つ。当たり前のようでいてその実当たり前に出来ていない諸々が、いかに多いかに気づけるだろうか。自分自身のドラマを実感したら、今日や明日の彩りが変わるのに…

 他人が決めたことに流されて、訳が分からぬまま何となく生きても、本当に納得できる生活や人生は縁遠いだろう。人間として生きるために学び、その知識を広げて日々の暮らしを考える。一つ一つのことを実感出来る人生と、訳が分からず流される人生とでは、当然得られる満足感が格段に違うだろう。"軽い時代"だからと、自分まで軽くして生きる必要は更々無い。全て自分次第である。

 物事を軽く受け流して"遣り過ごす"のが時代の主流だとしても、思慮分別なくそれを繰り返していると終焉を迎えるアメリカの「トランプ時代」同様になる。「思考」や「熟慮」と相反する、"単純な低脳化"に支配されることになる。人間が軽くなってヘラヘラ笑っているだけの時代が「快適」だと感じられるだろうか。私たちは今その時代に足を踏み入れ、「市場経済」の利益にひれ伏す人生を生きているのである。