獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

ものの順序と学術会議

 世の中のことは須く順序がある。目に見える、見えないに関わらず、それで世の中の秩序が形成されていると言って過言ではない。でも現実にはそう思えないことが沢山ある。国会で話題が集中している「日本学術会議」のメンバー問題がそうだろう。凡そ学術と関わりがあるとは思えない面々が、連日国会の場で「あーでもない、こうでもない」と与野党がやり合っている。

 この国は誠に平和であると言えば良いのか、それともすることがなくて退屈だから、暇つぶしにどうでも良いことを酒の肴にしているのかさっぱり判らない。確実に言えるのはどの顔を見ても厳粛な学問と付き合いがありそうになく、その内容について理解と知識が豊富だとは思えないことだ。言うなれば学問と最も縁遠い下世話の衆が、あたかも鬼の首でも取ったが如く"宣う"のだから、これは最早「落語」の世界である。

 物事には順序が存在するが、そもそも政府と国会議員諸公に学術会議を云々する資格があるかを尋ねねばなるまい。物事の順序で言えば、学術会議を云々する前に自らの足元の議員特権に目を向けねばならないだろう。菅総理が言う"既得権益"の代表例が、国会議員の特権であるのは誰の目にも明らかだ。立法府の立場を利用して"お手盛り"を繰り返し、議員自らが自分で自分を"太らせて"来た歴史を顧みるべきだ。

 改革・改正が必要な"既得権益"はそればかりではない。国民生活に直結する利害は数多く存在する。それらの中で飛び抜けて目立つのが政治絡みの「特権」である。前安倍政権で話題になった「モリ・カケ」教育利権も、真相は依然として闇の中に温存されている。立法府の国会が率先してやるべきは、自らに絡む無数の"既得権益"の壁を打破することで、複雑に絡み合う「岩盤権益」に出血覚悟で立ち向かうことだろう。

 それらの本命に"頬かぶり"して素知らぬ顔で学術会議のメンバーに言及するなど、文字通りの"笑止千万"である。物事の順番が違うと指摘せざるを得ない。自らの身を正してこその学術会議であり、学問と教育の真理と独立性が語れることを認識せねばならない。利権の汚辱にまみれた議員諸公が学問云々を語っても、国民の誰がそれを支持するだろうか。ただ単に看板を付け替えただけの"安普請内閣"と、"暇つぶし"をしているだけの国会風景は、いい加減辟易である。