獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

菅新政権発足

 実に7年8ヶ月ぶりの政権交代である。その善し悪しは兎も角として、何やら霞が晴れたような気分にさせるから不思議である。政権内部は目新しいものを探すのに苦労するほど"代わり映え"しない。大半が同じ顔の羅列で、"昔の名前で出て来た人"との混成チームのようだ。その是非については多くのマスコミと、識者とされる人たちが、早速喜び勇んであれやこれや言い立てている。

 誰がどう評価し、どう予測しようが勝手だが、マスコミや世の識者がどう言おうと菅新政権はあくまで菅新政権である。それ以上でもなければ、それ以下でもない。否応なしにすぐ馬脚を現すことを、あれやこれや騒ぎ立てる神経がそもそも理解に苦しむ。久々の新政権発足で分かったことの一つは、すぐに結果が判明することに枝葉をつけて面白がる人種が想像以上に多く居ることだ。

 平和であることは悪いことではないが、この種の「暇で退屈な人間」ばかりを大量生産しても社会の生産性は一向に上がるわけではない。菅新総理が口にする「当たり前のこと」が当節当たり前に通用しているとはとても思えない。世の中の各所で"ボタンの掛け違い"や"勘違い"が数多く横行している。それはそのまま「安倍前政権の負の遺産」でもある。白々しい嘘や大っぴらな嘘が堂々と通用する時代を築いたのは、紛れもなく安倍前総理である。

 誰も想像していなかったコロナ禍で、人間社会はあらゆる分野に深刻なダメージを受けた。現在もなおダメージを受け続けている。だからと言って、善悪に目をつぶって前政権をそのまま引き継ぐのでは、あまりに能がないと申し上げざるを得ない。端緒が何であれ、国民の微かな期待は「新風」である。新しいだけが良いとは言わないが、良くも悪くも安倍長期政権に国民は「飽きて」いた。ライバル不在を良いことに驕り高ぶるその政治手法に、少なからず苦々しさを感じていたのである。

 それでもなお与野党に代わるべき人材が見当たらないので、やむなく安倍政権を受け入れていたに過ぎない。積極的な安倍政権支持者は一部の「極右勢力」のみで、大半のリベラルな国民は決して安倍政権を歓迎していたわけではなかった。そんな時代の空気を同じ政権内で支え続けた菅新総理がどこまで理解しているか。些かどころではない、大きな疑問符である。唯一の救いは久々に登場した「非世襲議員」で、地方政治を体験していることだ。現在の我が国では奇跡的なことだ。

 私はかねてから国会議員の資質に地方自治経験が不可欠だと訴えているが、地方議会やその首長の体験なしに国会へ出て来て、政治とは何かが分かる筈がない。例外なく世襲議員の最大の泣き所である。大学卒業と同時に着任する新入社員に、責任ある仕事を任せる企業が果たしてあるだろうか。良くも悪くも現在の我が国政界は、その手の「責任」を知らない世襲議員ばかりである。

 政治を知らぬ政治家が増えて、やることがないから結局は利益誘導と利権の確保に走り出す。現在の我が国国会はその手の累々が所狭しと並んでいる。そもそも安倍総理の所業を見れば物事の善悪が随所で逆転している。この種の人間に今更物事の善悪を説いても、文字通り「馬の耳に念仏」である。そんな国会の風土をどこまで正せるか。菅新総理に課せられた大きな責務である。

 政策云々については敢えて触れまいと思う。政治とは何か、責任とは何かが多少なりと理解されていれば、自ずとやるべき責務は見える筈である。規制改革や既得権益と現状打破こそが国政の"一丁目一番地"であることは間違いない。"言うは易く行うは難し"の岩盤体制にどこまで立ち向かうかで、菅新総理の本気度が試される。苦労人と言われる理由は定かに分からぬが、自民党の伝統を覆す無派閥で成り上がった手腕は並大抵ではない。

 「当たり前のこと」と「当たり前でないこと」が見えているとすれば、近来稀に見る"普通の人"だ。田中角栄鈴木善幸以来である。普通の日本人が行う普通の日本人の暮らしを、どれほど多くの国民が熱望していたことか。特権階級人が行う特権階級のための政治は、いい加減卒業して欲しいと願うのは私だけではないだろう。国民が目覚めて自ら行動せずして得られた、「棚ぼた」新政権の誕生である。