獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

時代の幸不幸

 私たちは誰しも親を選べないし、生まれ出る時代を選ぶことも出来ない。生物学的理屈は抜きにして、生まれ出た瞬間からある種の不可抗力を背負っている。自分の努力が及ばないから不可抗力なのだが、その意味で川の流れに似ているかも知れない。「ゆく川の流れは絶えずして、然も元の水にあらず」は国語学習で習う有名な一節だが、生きている時代はその川の流れそのものかも知れない。

 敗戦のショックから起ち上がった我が国の戦後も、昭和、平成を経て令和の現在に到った。それぞれの世代で感じ方が全く異なると思うが、激動した長い昭和の時代を生きた世代と、何不自由ない豊かで便利が当たり前の現代に生まれた世代とでは、日本人としてのアイデンティティーがそもそも異なるだろう。以前はごく当たり前であった常識そのものが、時代と共に激しく移り変わっている。

 一口にどの時代が幸せで、どの時代が不幸であったかは、身を置いた環境によっても大きく異なるので、単純にどの時代だと断定は出来ない。断定できないから、そこから色んな議論が百出する。その特定のどれかに荷担するつもりは毛頭ないが、長く生きている身は好むと好まざるとに関わらず、長いスパンで時代を俯瞰している。ごく自然に長期的視野を養うことに相成るのである。

 「豊かさ」の定義は時代と共に変わる。現代はむしろ、豊かであることが幸せであるのかが問われている。豊かな時代が不幸だなどとは凡そ考えられない極貧の時代があった。求めるものが全て手に入らず、無いのが当たり前であった時代を多くの人は知らない。そんな現代に細やかな人間の幸せを説いても、耳を傾ける人は居まい。況してや共感することなど考えられない時代に、現実として私たちは生きている。

 経済格差や所得格差、教育格差や育児格差まで、社会のあらゆる分野で「格差社会」が蔓延している。曲がりなりにも民主主義が制度化して、主権在民の原則に基づいて選挙で国民の意思が問われる体制下で、国民に選ばれた筈の代議制が機能を失いつつある。水面下で巨大化する利権を争って奪い合うだけの「偽装民主主義」が蔓延っている。「格差社会」はそんな現実を映し出す鏡だ。

 人間生活を営む上での必然とは言い難い「格差社会」が、まるで他人事のように当事者意識を持たないまま漂流している。否応なしに幸か不幸かを分け隔てる現実であるのに、誰もが関係ないと顔を背けたままである。これが豊かな時代と便利な社会の実相だ。どこかでボタンの掛け違いが生じて、それに気づきながら誰もが他人事として放置する。自分の身を痛めなければ責任を感じないほど鈍感になった。

 「豊かさ」って何だろうと考える。「幸せ」って何だろうと考える。小難しい理屈はこの際必要ない。人間が人間らしくあることにも通じるが、普通に、当たり前に、人間らしく日本人として生きることがそんなに難しいことだろうか。戦後の貧しい時代には誰かに教えられなくても、お互いが助け合って、分かち合って毎日を生きた。自分の幸せを他人に分け与え、他人の不幸を我が事のように手助けした。

 いつから時代の歯車が狂い出したか定かではないが、「何かが違う」現象があちらこちらで起きている。知らず知らず私たち自身が招き、形作った「何か」が、結果として私たちから「幸福感」を奪い取っている。そのことに殆どの人が薄々気づきながら、誰も手を下そうとしない。大小様々な「何か」が放置され、振り向かれないまま朽ち果てようとしている。それを「幸せな時代」だと言えるだろうか。

 私たちは自分で選べない時代に生まれ、その選べない時代に生きている。だけどみんながそのことに気づいて、ほんの少しだけ努力すれば時代は変わる。硬い岩石だって永い年月雨に打たれ続ければ形が変わるのである。「幸不幸」は他人から与えられるものではなく、自分自身がその手で掴み取るもののようだ。「格差社会」もお互いが他人を思い遣って行動を起こせば、案外簡単に乗り越えられるかも知れない。