獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

人生の長坂

 少し記憶が曖昧だが「人の一生は重き荷を負い長い坂を登るに似たり」との言葉が、忘れ難く記憶に留まっている。確か徳川家康柳生宗矩の言葉であったと憶えているが、短くはない人生の山坂を越えての述懐が胸に響いた。生きた時代が現代とは大きく異なることを思えば、殊更言葉の重さが増して忘れ難い。

 現代社会に生きている私たちは何事も自分と重ねて解釈しがちだが、この言葉が意味する時代をどこまで理解しているであろうか。思い見れば道路は舗装されていない砂利道で、移動手段は人間が担ぐ駕籠か、馬の背に乗る以外の方法がないのである。万事につけ自分の足で歩くのが当たり前で普通だった。

 暑いから、寒いからと言っても空調設備はなく、身分の上下や富裕層も貧しい者も等しく額に汗して、或いは凍える手に息を吹きかけて堪え忍んだ。草鞋の足に直接伝わる土の感触を想像できるだろうか。歩いても歩いても辿り着けない行程や川止めに苛立つことなく旅を続けられただろうか。

 慣れると言うことは時に大きな勘違いを生む。乗る新幹線が遅れただとか、天候不順で飛行機が欠航したからと腹を立て苛立つ。新幹線や飛行機は他人が動かしていることに気づかず、あたかも自家用車のように自分が動かしている錯覚に陥る。その自家用車だって自分が切り開いた道路を走っているわけではない。他人が整備したものである。

 自分は何もせず単に金銭を支払って利用しているだけなのに、意識は常に自分主体で自分本位である。自分の手足で動いてはいないことを忘れている。便利さに慣れてそれが当たり前で普通になっている。自分は実際に動いていないのに、自分の思惑通りに物事が進行しないのは他人のせいで他人の責任を問うのである。

 子供の学校の成績が振るわないのは学校の責任で、親である自分は勉強を教えたりの何らの貢献をしていなくても、或いは親である自分の能力が直接遺伝で受け継がれていても、親である自分には一切責任がないのである。子供が自らの足で歩くであろう道程の曲がり道や急坂は、関わる他人が手助けするのが当たり前なのだ。

 大小に関わりなく私たちは実際に自分の荷物を背負ったことがあるだろうか。背負うことなくその大きさや重さを体験したつもりになっていないだろうか。そしてその大きさや重さは他人の責任で、自分には何らの責務もないと思い込んではいないだろうか。実際に自分の手足で動いたことがない人間は、手足に伝わる熱さや冷たさ、重さや痛さを知らない。

 すべて誰かがやってくれるものと信じ込んで、自ら行うことを忘れている。長い坂と短い坂がどう違うのかを知らない。坂の途中でどんな景色が見えるかも知らない。一瞬で新幹線の窓から消える富士山のように記憶に留まるものはなく、すべては通過するだけの意味を持たない光景である。通り過ぎて消え失せるだけである。

 重い荷を負うこともなく、長い坂を登ることもない私たちは、幸せなのだろうか。幸せって何もせず、何もしていないのにしたような気分で責任を他人に転嫁することなのであろうか。自ら額に汗せず、手足が凍える体験もなく、頭で考えて得られる程度のものなのだろうか。

 豊かで便利な時代に生きている私たちは、若しかしたら途轍もなく大きな勘違いをしているのではないかと思う。豊かで便利であることに慣れて五感を通して物事を体験せずに、あたかも実体験した如くに誤解しているのではないかと思えてならない。いつしかそれが普通になり、当たり前になって、誤解や勘違いをそうだと認識することさえ忘れ去ったように思えるのである。

 時に重い荷を負うことも、長い坂を耐えて歩むことも必要ではないか。豊かで便利な時代に慣れ親しむ子や孫の世代に、それを教え伝えるのが親や大人世代の責務ではないかと思うが如何であろうか。