獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

生きている幸せ

人間は普段自分が生きていると感じることが少ない。特別感じようと感じまいと、普通に呼吸していれば心臓が動いてくれて生存活動が維持されている。これが生きているということなのだと改めて考えなくても、その前に現実の生活が出来ているのが普通だろう。あまりに当たり前すぎて考える余地がないのが普通だ。

 生きているのが当たり前なら、生きることが困難になった時は非常時になる。昨今のコロナ・ウイルスの爆発的感染が現実になった時の"非常事態宣言"のように、予想を超える展開を余儀なくされる。懸命の努力にも関わらず次々に死者が増える様相は、誰しもの予想を遙かに超えて深刻になる。個人が出来る努力は僅かである。

 生きるという営みは本来各人の個人的行為である。にも関わらず集団で対応せざるを得なくなった場合の個人は、立ち位置が大きく変わらざるを得なくなる。何よりもまず自由度が大幅に制限される。失われた青春同様に、自由もまた失われようとする時によりハッキリと存在が意識される。人生は誠に無情であるようだ。

 ともかくも生きるという前提が最優先されるのだが、そこで問われるのが生きていることの幸せ度である。人それぞれで千差万別の幸福度を、"一派一絡げ"で判断することの是非である。個人の幸せ度と集団の幸せ度が完全に一致していれば問題ないが、民主社会の現実は本来ケースバイケースで個々に異なる場合が多い。

 各個人個人が等しく生きていることを幸せに感じていれば問題ないが、現代社会は複雑怪奇で必ずしも一様ではない。生きているという実感を持てずに、ただ呼吸しているのみの認知症高齢者が数多くいる。自立して生きること自体が無理な障害者も少なくない。これらの人たちの中には、むしろ生きていることを負担に感じている方々もいるかも知れない。生きることがそのまま幸せであると、単純に割り切れない側面がある。

 人間それぞれに各人各様の現実を抱えて生きている。何もせずとも幸せを実感している人ばかりではない。大抵は幸せを実感しようと懸命の努力を続けている方々が多いだろう。次々と立ち現れては消えていく毎日の生活に追い立てられるように、慌ただしく過ぎていく時間に疲れを感じている人々が少なくないだろう。

 幸せって何だろうとふと思うことがあっても、深く考える前に日々の生活が押し寄せて来て、気づかないままに時間が過ぎていく毎日という方々も多いだろう。特別生きるということを意識しなくても、好むと好まざるとに関わらず生きているのが現実かも知れない。幸せは特定の色や形があるわけではないので、その真っ只中に居ても気づかないケースもあるだろう。

 幸せだと感じないのが本当の幸せで、意識しなければならない幸せは本物ではないのかも知れない。定義がないから見失いがちだが誰しもにある「幸せ」って、取り敢えず生きていることなのかも知れない。生きているから様々に感じることが出来るので、生きることが出来なくなったら「幸せ」の色や形が消えるだろう。

 難しく考えると際限なく広がって、際限なく深まるのが「幸せ」であるようで、だから難しく考えるのをやめて肩の力を少し抜いて、心を軽くして上げればどこからともなくやってきて、いつの間にか自分の中に住み着いてくれるのが「幸せ」であるらしい。そのためにはまず生きねばならない。それを「幸せ」だと実感できるように…。