獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

知的障害妻

 先稿の「馬鹿につける薬」で知的障害がある老妻を書いた。世間の常識でいえば、何も好き好んで家庭内の恥を曝すことはない、ということになろう。新旧を問わず凡そ世間の常識とされることに大いなる疑問を拭えないタイプの人間なので、別段それを恥だとは認識していない。そんな怪しげな常識よりも、人間生活での偽りない事実を直視することで見え隠れする人間の「真実」が大切だと思っている。

 その意味で言えば、世間で取り沙汰される「人間愛」だとか「家族愛」は悉く"嘘くさい"。多分マスコミが衆目を集めるために脚色したものであろうと思うが、人間が人間を思いやるということはそんなに美しいものだろうか。人間は誰しも本来エゴイストである。他人がどうであれまず自分という存在があって、それがほぼ絶対的な条件を構成している。

 自分を顧みない無償の奉仕愛を否定はしないが、宗教などの特定的なものを除いては殆ど現実に存在しない。偶然結果が極めて珍しく美的に終わったにしても、故意にそうしようと思ってそうなったわけではない。その意味で真実性に欠ける場合が殆どである。懐疑的だとの指摘を受けそうだが、何も人間性を否定しようとの意図はない。

 世に障害者とされる人たちは大勢いる。本人の意思とは関係なく持って生まれた能力だから本人の責任ではない。但し、そこから先の人生については良きにつけ悪しきにつけ本人が責任を負わねばならない。他の動物を引き合いに出すまでもなく、生きるということは最終的に自己責任だからである。

 障害を持つものや弱いものは淘汰されるのが自然界の厳正な摂理である。人間社会だけが特別であることはその意味で許されない。好むと好まざるとに関わらず、まずその前提条件を受け入れねばならない。その上でどう対処すべかを考えるのがものの順序であろう。「人間愛」は人間が人間を愛することで、「家族愛」は親子・兄弟などの家族を愛する気持ちであるのは、誰しもが一応理解している。

 現実の生活で親子や兄弟などの肉親のために、どこまで自己犠牲が可能であろうか。頭で考えて美的にやろうと思っても、実際に毎日の生活で直面すると違う側面が屡々現れる。その都度自分を優先するか、家族などを優先するかの、過酷な選択を迫られる。迷いを感じない人はまず居ないだろう。理想と現実の狭間を否応なく見せつけられるのである。

 我が老妻についても若き日に出会っていなければ、50有余年を一緒に過ごすことは多分なかったであろうと思う。その意味で言えば「若気の至り」と言えなくはない。どんなきっかけであろうとなかろうと、出会ってしまった色白で大きな瞳の可愛い美人には離れ難い感情が生じた。話し込むうちに少しずつ感覚的なズレがあるのに気づいたが、疎遠にするほどの理由にはならなかった。

 湧き上がる旺盛な性欲が欲するままに関係が深まり、知的障害の有無は意外な局面で現実化した。どんなに冷たくあしらわれても、時に暴力を振るわれても、信じ難い従順さで笑顔を絶やさず離れないのである。面と向かって「もう二度と来るな」と宣告されても、泣いて帰った翌日にはまたいつもの笑顔で現れるのである。

 「喜んで死ぬから殺して」と言って憚らないピュアな童心は、諸々の私の俗心を跳ね返し続けて今日に到っている。母親譲りの知的障害は生活のあらゆる場面で表出して、作法に厳格な家庭で育った私とは天地が逆転するが如くである。妻と私の普通や当たり前が逆で、日常あり得ないと思うことでも妻にとっては普通なのである。

 一緒に生活するという決断をして以来、その正邪の逆転をどう受け止めるべきかが私に課せられた最大のテーマになった。悲観的に解釈すると悲劇そのものになるので、努めて楽観的に現実離れした善意的解釈で応じることにした。戸惑いばかりでなく、時には激怒に結びつく行動も努めて冷静に受け止めて、どうして違うのかを淡々と感情を抜きにして説明した。

 実際の結果を言えば共に生活して50有余年を経たが、生活に関することについて未だに出会った頃と変わらない説明を繰り返している。何千回、何万回同じ事を説明しても、妻に理解されることは多分永遠にないだろう。それでも続けて、食い違う生活感覚は私が補足する以外の選択肢がないのである。腹立たしい思いは常にあるが、自分が選んだ家族の一員だからその事実から逃れることは出来ない。

 「人間愛」とか「家族愛」と簡単に口にするが、真実は美しくも優しくもない。熱かったり、腹立たしかったりはするが、他人を感動させる美談とは凡そ無縁の生々しいリアルがそこにあるだけだ。一口に障害者と言っても様々あり、決して一様ではない。むしろ個別であるからこそ厄介度もそれぞれ違うだろう。現実と実態を知ることが先決だ。

 先稿の 「馬鹿につける薬」で問いかけたテーマは不変だ。面倒だから、厄介だからと遠ざけておいて、都合の良い時には「掛け替えのない家族だ」との言葉に嘘がないかどうか、家族や当事者ばかりでなく私たちの一人一人が塾考すべきだろう。「責任」を軽んじて、最もらしい理屈で自分を正当化するのが流行だが、姑息が持て囃される時代に「真実」は存在するのだろうか。

 いくら虚偽の言葉を弄んでも苦境や悲劇が減るわけではない。知的障害妻と50有余年一緒に暮らして得た結論はそのことである。悲劇的ではないもののずっしりとした重量感を受け止めて、大いに腹を立てて向き合う以外の方法はないのである。それがお互いの人間性を確認し合う唯一の手段だと信じて……。