獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

愛する人に愛されて

 人は誰でも愛を求める。親兄弟の家族愛からスタートして、友情と異性愛へと発展していく。決して特別のことではなく、誰しもが愛を求める長い旅路につく。求めなくても与えられる愛がある反面、求めても、求めても、得られない愛がある。喉の渇きにも似て、得られないほど渇望観が高まる。

 自分自身へ向けられる自己愛は別として、他人を対象とする愛は複雑だ。特に男女の異性愛は、生理的要因や人間性において大きな違いがあるのでより複雑で厄介だ。そうと分かっていても、容易に得られなければ得られないほど欲求は強くなって、時に異様なプリズム現象を招く場合が少なくない。

 愛と一口に言っても、その範囲と陰影は無限に広い。性欲としての肉体的欲求もあれば、微妙な感情が絡まり合う心象もある。心が通い合ってお互い相手を認め合える場合は良いとして、どちらかが一方通行である場合は悲劇だ。恋人同士なら別れればそれで済むが、夫婦の場合は簡単ではない。

 お互いがそれぞれに理解し合って結婚した筈なのだが、実際に起居を共にすると感覚的違いに気づく。最初は小さな認識の相違程度であっても、年月を経ると抜き差しならぬ事態に発展する場合が多いようだ。「夫婦げんかは犬も食わぬ」と言われるが、深層は当事者同士しか理解できないので、他者が介入すると余計にややこしくなる。

 愛という言葉は美的だが、その深淵には激しい憎悪感情を併せ持つ。成り行きや運用次第で様々な色や形に変わる習性がある。愛する人に愛されて日ごと夜ごと睦み合う間はいいが、一転して夫の求めを拒否する妻や、妻の欲求に顔を背ける夫になると、心も閉ざされて通わなくなる。

 動物的肉体交歓は味気なく、次第に不快感を伴って煩雑なものに変わる。些細なことがお互いの感情を逆撫でして、事あるごとに衝突する。往時の愛はどこかへ消し飛んで、目に入るもの、手に触れるもの、それらのすべてに憎悪感が生まれる。何ゆえかとの推察は意味を成さず、分裂以外の方法・手段がないのである。

 世間にはその類いの夫婦が数多く居る。早々に別れたり別居する夫婦も居れば、未練がましくズルズルと腐れ縁を引きずっている夫婦もいる。「夫婦げんかは犬も食わぬ」の例え通り、他人事ゆえどうでも良いが、誠に多彩な風景が見られる。愛する人に愛されては言葉でいうほど簡単ではなく、また必ずしも美しいとは限らない。

 それでも人は愛を欲して求め続けるのである。子は親を、親は子を、男は女を、女は男を、それぞれに求めて煩悶する。愛を愛として、美しくするのも人であり、憎悪でドロドロにするのもまた人である。相手に求める前に、自分自身の心に愛はあるか。美しいものを美しいと、素直に反応する感性があるか。

 限りなく心地良い交歓は限りなく美しい感動を伴うものだ。身震いするような愛こそが真実の愛だろう。そんな愛する人が側に居ますか。愛する人に愛されていますか。男女を問わず自分自身が美しい心を提供しなければ、相手から美しい感動がもたらされることは決してない。愛は自身の中にある。その真理に気づけば今日が変わり、明日が変わるだろう。