獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

人間の習性

 人はそれぞれに生まれ持っている様々な習性を身につけている。先天性のものの他に幼少時から生きる過程で身についたその人なりの習性もある。個性と呼ばれているものも大半はこの習性が主たる要因を為している場合が多い。当人には都合が良くても、他人迷惑な習性は少々厄介である。然も当人が気づいて自覚しているものと、全く気づかず自覚がないものとがあるようだ。

 先天性のものは殆どが親譲りで、当人の責任に帰するとは言い難い部分が多い。しかし、自分が生きる過程で意識するしないに関わらず現れるので、最終責任はその人それぞれが負わねばならない。とまあ言葉で言ってしまえば簡単だが、実際はそれほど簡単ではない。世の中のトラブルや事故・事件の類いはそこから端を発するのだが、すべての当事者が率直に事実関係を認めて納得するかどうかは甚だ疑問である。

 人間が人間社会で仲良く共存するのは永遠の課題である。性善説性悪説に因むものもあれば、そうでないと考えられるものもあるので余計厄介である。大小様々あるがすべて人間関係である。小は親子や夫婦関係から、大は国家間の関係まで実に多彩である。一番身近な親子は善し悪しはともかくとして血縁関係だ。兄弟や親戚まで含めて「血の呪縛」なので、自分の都合で逃れることは出来ない。その意味では最大の習性である。

 「血の呪縛」は肉親だけでなく、大きく見れば民族間の対立まで発展する。表面上の国籍に関わらず体内に流れる血を取り替えることは出来ない。例え好むと好まざるとに関わらず、親子・兄弟同様に勝手に変えることは出来ないのである。その意味で宿命的だ。他方夫婦は他人同士なので、好みや都合で勝手に変えられる。夫婦として共に生きた年月が長くても短くても、別れてしまえば「ハイそれまでよ~」である。

 夫婦の関係は一見単純に見えるが、元々が他人同士だから異なる習性を引きずって生活することになる。当人同士が気づいていなくても、一緒に生活する過程で否応なく出てくる習性の違いは、簡単に変えられるものもある反面断じて変えられないものもある。「あって七癖無くて何とか」と言われる如く、人間性の根幹を成しているだけに厄介だ。言葉上は「譲歩」と簡単に言うが、生まれ持っての習性は容易く譲れない。

 特に女性に多く見られる「親譲り」の習性は、単なる血縁を超えて地域性も大きく作用する。生まれ育った地域の習俗を無意識のうちに身につけている場合が多い。良くも悪くも「親譲り」なのである。当人が極度にそれを嫌っている場合を除いて、大抵はそれなりの愛着を感じているので、これを変えるのは事実上不可能のようだ。自分の親や家庭、生まれ育った環境まで否定されたように解釈されて、"のっぴきならない"対立を産むことになる。

 最初のきっかけは単純なことであっても、「親譲り」の習性は一旦意識されると後戻りが出来ずに"大火"の火種になるようだ。必ずしも否定していなくても、相手側には自分の全存在を否定されたと受け取られて後へ引けなくなるらしい。夫婦間は他人同士でも、そこに親や肉親が絡んでくると"泥縄"になる。単なる人間の習性だが、ここまで発展したら収拾は多分困難だろう。

 習性は多くの場合排他性を伴う。身内同士、仲間同士で仲良くしている内は良いとして、少しでも異質のものが混入することを極度に嫌うようだ。不思議に同じ民族同士が結束して異質分子を排除しようとする。異教徒間の対立は屡々民族紛争に発展するし、多民族国家は常にその火種を抱える宿命を有する。個人的関係でもお互いがその習性の違いを意識するようになると、友人関係は遠のき夫婦関係は冷え込む。

 たかが習性されど習性である。一朝一夕に身につくものではないので尚更厄介で、違いを克服するには文字通り「気が遠くなる」努力を覚悟せねばならない。コミュニケーション手段の言葉が極度に省略されて「短文化」し、経済ばかりでない「効率化」が求められるこの時代に、それだけの努力に見合う成果が得られるか否かの保証はない。敢えて時流に棹さす勇気が持てるか否かが問われる場面でもある。

 人間が人間社会で生きるのは容易なことではないようだ。さりとて人間業を止めるわけにはいかないから実に悩ましい。習性を持たぬ人間は多分この世に存在しないだろうから、精々気の合う仲間やパートナーを真剣に探さねばならない。「幸せ」って案外その中に潜んでいるのかも知れないと、ふとそう思った冬の午後である。