獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

道連れ

 一口に「道連れ」と言っても様々ある。一番身近な道連れは亭主や女房だろう。血を分けた肉親とは言っても、親や兄弟はやがて側から離れていく。幼少時には最も身近であっても、自身の成長とともに次第に距離が遠くなる。

 それに引き替え夫婦という人間関係は、他人同士の出会いからスタートして大抵は生涯続く。時代の変化で最近は男女の組み合わせではない、男同士、女同士のペアが法的に認知されて増えそうだ。何やら薄気味悪い世の中になりつつある。

 基本的人権とやらはどこまでも無限らしい。妙な人並み外れの性行為も当人同士が認め合えれば、周りの他人に抵抗感や不快感を与えても自由であるらしい。それならば法的に婚姻関係にある男女が、公衆の面前でセックスすることが違法なのは何故なのか。

 お互いが生涯を共にしようと誓い合い、親兄弟や親戚のみならず多くの友人・知人たちに祝福された夫婦に性的自由が与えられず、言ったら悪いが訳が分からない男同士や女同士は自由だというのは理屈が通らない。

 長い人生を共に歩もうという夫婦には、セックスが切り離せない重要なパートナーである。中にはセックス・レスという夫婦も少なからず居るようだが、人間社会の歴史や有り様に照らしてノーマルとは言えまい。それとも今世紀以後はアブノーマルが日常化するとでも言うのだろうか。

 長い道のりを歩むには「道連れ」が欠かせない。良きにつけ悪しきにつけ、くっついたり離れたりしながら、喧嘩し合って同じ道を歩む。親子や兄弟でも越えられない垣根を幾つも乗り越えて、他人同士だから出来る喜怒哀楽を共有するのである。

 誠に不思議と言えばこれほど不思議なものはない。常識的にタブーとされることも夫婦ならば容認されて、お互いの秘部を嘗め合うことさえ"心地良く"なる。生活上の好き嫌いが、長い人生の中でどちらともなく近づいて、気づけば離れられなくなっている。

 親兄弟や他人の誰とも違う「家庭の味」がいつしか出来上がって、その中に身を浸していることが"言うに言われず"快適になる。衣食住のすべてに共通感覚が生まれて、他人には理解し難い独自の世界が生まれる。「道連れ」はいつしか「道連れ」を超えるのである。

 この「道連れ」は何物にも代え難く強固であるが、一旦崩壊に向かうと非常に脆い。早い場合は一瞬で跡形もなく消え去る。元々が他人同士の関係だからと言えば理由は簡単だが、あれほど絶対的であったのは何であったろうかと疑わざるを得なくなる。

 事ほど左様に男と女は強固で、かつ脆い。お互いがセックスを通じてコミュニケーション出来なくなったら男と女でなくなる。どう理屈を連ねても、いかなる代換え手段を講じても、「道連れ」としての夫婦ではなくなる。惰性化して泥沼に嵌まっているだけだ。

 惰性化して他人になる夫婦もまた多種多様だ。生活上の便宜性で一緒に暮らす夫婦も居れば、我慢できずに別居したものの離婚はせず、毎日のように顔を合わせて手助けし合う不思議な夫婦も居る。特に高齢化するとその多彩さは一段と多種多様化するようだ。

 いつの世も男と女はお互いに求め合って、移りゆく時代を生き抜いたのだろう。単なる興味本位でスタートしたとしても、心と体を重ね合わせる内に色々な人生の機知に出会い、お互いの人間性を認め合って、無意識のうちに手をつないで歩んでいるのに気づく。

 旅は「道連れ」というが、果てが見えない人生の長旅ほどその真価が問われる。その長旅が間もなく終わろうとする課程に辿り着いても、旅の行方は尚も混沌としている。手をつなぐことが出来るパートナーは例えようもなく重要で、触れて熱くなる性意欲と共に欠かせない。