獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

日本語の妙

 日本語は誠に面白い。せっかく日本人に生まれながら、この最大の文化遺産に気づいていない人が圧倒的に多い。新しく指定された「世界文化遺産」には長蛇の列を作っても、一番身近にある文化遺産には気づかず、興味や関心もないらしい。

 行政の仕組みがそもそも可笑しく出来ていて、重要度や必要度に関わりなく一様に古いものだけが評価される。我が国の文化勲章を始め、各種の叙勲を見ればその中身が良く分かる。我が国だけではなく、有名なノーベル賞だって受賞者の大半は高齢者だ。

 文化的価値はさておいて、日本人に親しみ深い日本語は大雑把に分けて二種類あるようだ。日本人が使う日本語と、外国人が使う日本語は、同じようでいて同じではない。日本人が使う日本語は当然だが概ね粗雑である。国語として学校で教えられても、生まれ落ちた時から目にし、耳に親しんでいる。

 話し言葉や文章を問わず、いちいち文法を考えて日本語を活用している人はまず居ないだろう。直感的に慣れ親しんだ言葉が口をつき、脈絡がどうであれ要件が伝わればいいのである。最大目的のコミュニケーション手段として通用すれば、学校のように点数で評価されることはない。

 それに引き替え外国人が使う日本語は、一応文法に添って整理されている観が強い。日本人が使う外国語の場合もほぼ同様であろう。日本語は漢字と仮名が混在する独特の言語だ。漢字のルーツは言うまでもなく古代中国だし、国産の仮名文字にしたってひらがなとカタカナがある。他国の言語と大きく異なるのは、その応用範囲の広さだ。

 「来る方」(きたるかた)と「来し方」(こしかた)という表現がある。現代流に言えば未来と過去ということになるが、語意に大きな違いはない。しかし、言葉の響きを通して伝わる想像の世界にはかなりの差がある。感覚を刺激する度合いに差違が生じる。これが「日本語の妙」だと私は思っている。

 独断と偏見を恐れずに言えば、一番日本語から距離があるのが私たち日本人ではないかと思っている。身近すぎて意識することなく生活の中にあるから、改めて考える機会を逸している。それぞれ個人や集団で勝手に言葉を変え、使い方を変えて、時代と共に「短文化」して今日に到っている。

 パソコンやスマホの普及で文字を書く機会が減り、画数の多い漢字は読めても実際には書けず、必要最小限の要件や気持ちを伝える略文や短文で事足れりとする傾向が顕著だ。そのために日本人が一番日本語を知らず、世界一難解とされる日本語に挑む外国人は、必死の思いで懸命に取り組むのである。

 何やら奇妙な思いを禁じ得ないが、善し悪しは別としてこれが我が国の現状であるようだ。多分遠くない近未来に、外国人教師を招いて日本人が日本語を教わる日が来るかも知れない。「日本的表現」 とされる日本語特有の風情は、外国人の日本語教師しか理解する人が居なくなるのかも知れないと時折思っている。

 文学とは何ぞやの小難しい理屈を抜きにしても、時代が標榜する「便利で豊かな社会」へ向かう奔流は止められない。飼い慣らされて群れを成す日本人社会は、本当に大切なものが何かを見失ったまま漂流を続けるのだろうか。