獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

正月料理

 正月三が日が過ぎても我が家は当分正月である。例年恒例だが肺癌と膵臓癌の手術が連続した一昨年と、術後の昨年はさすがに食欲が落ちて目で楽しむだけで終わった。曲がりなりにも健康が回復した今年は、正月前から「喰うぞ!!」と意欲・食欲共に満々で楽しみに心待ちしていた。

 金銭欲や出世欲とは元々無縁で、美と食を生涯愛し続けてきただけに、内容を問わず「美しいもの」と「美味しいもの」には人一倍執着がある。そのどちらが欠けても多分この世に生きる意欲を失うであろうと自覚している。無為に能々と生き恥を曝すことを嫌悪するが故に、自分の命は自分が責任を持つと決めている。

 見栄や虚栄心と隔絶された自分なりの世界で生きてきたので、他人や時代の潮流とも距離を置いてきた。「群れず流されず」をモットーに、貧しくとも心豊かでありたいと願ってきた。殊更贅沢趣味はなく、自分が生きられる程度の食に満足感を見出してきた。日本人らしい日本人でありたいと願うゆえに、「和食」を愛して止まない。

 世界文化遺産であろうとなかろうと、日本人の感性が育んできた「和食」は世界一旨いと確信している。フランス料理や中国料理も美味であるが、それを続けて食する気には到底なれない。良くも悪くも民族性を否定できないので、日本人らしさにこだわりが強い。正月料理の"おせち"は「和食」の粋であり、日本文化そのものであると思っている。

 戦後の生活の洋風化で日本人家庭でも一段とフランス料理を始めとする「洋食」が取り入れられている。グローバル時代と言われる現代の若い世代は、日本人が伝統的に食してきた魚菜を敬遠して、ハンバーグに代表される肉食を愛する。それぞれが旨いと感じる好きなものを食するのに異論はないが、人間生活の基本で土台でもある食生活の変化は文化の変容に直結する。

 正月早々小難しい理屈を並べるのは無粋であるが、食は私たちの「命」そのものである。また見方を変えればそれぞれの国の民族性と、その豊かさを象徴している。現代の社会現象は"カネとモノ"が溢れる社会を豊かさだと勘違いしているようだが、その豊かさはすぐにバブルの如く消え去る。その後に残る"遺産"こそ真の民族性であろう。

 食生活の豊かさはそのままその民族の豊かさだと、私は思っている。贅を尽くすこととは異次元の「感性の豊かさ」である。ごくありふれた身近な食材であっても、丹精込めて調理し、微妙な味付けに祝意を盛り込む「和食」は、世界に類のない"芸術品"だ。素材を大切にする「日本人の感性」そのものだとも言えるように思う。

 我が家は幸い老夫婦が共に「食道楽」をもって任じている。50年以上積み重ねてきた「食感」であらゆる困難を乗り越えてきた。美味なるものの前には何物も効力を失う生活を続けてきた。おいしさとは何か、旨さとは何かを、お互いが知っている。その美味と旨さには無条件に降伏する。

 人間の強さと弱さ、見難きものと"美しいもの"、果ては人間としての有り様まで、食はそのすべてを支配する。それゆえ食が貧しき者は、いかに"カネとモノ"に恵まれようが「感性豊か」にはなれない。常にそれ以上を求める欲の連鎖に陥り、おいしさとは何か、旨さとは何かに気づくことはないだろう。

 豊かで便利とされる現代社会で、身近で目の前にある"幸せ"に気づかなければ、「和食」が持つ微妙で繊細な味にも気づかないだろう。内にある幸せを見逃して、外の誘惑に戸惑う日々からは、真の正月は多分見えないだろう。正月料理の"おせち"が嘆き悲しまないように、我が家は七草の頃まで愛でるのである。