獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

老いて尚も歌心

 老いて尚も"歌心"を失わない菅原洋一に幸いあれと祈りたくなる。多分に主観的で恐縮だが、最近の歌は歌かと疑わざるを得ないものがやたらに多い。まともに最後まで聴くに耐える歌がない。その反面でどの歌い手も耳障り良く歌が上手だ。お断りするが、上手な歌が旨い歌とは限らない。上手すぎて反発心や不快感を抱かせる歌もある。

 概して若い歌い手の歌は上手だけれど、それだけで終わっている類いのものが圧倒的に多い。例えて言えば表通りの大きな店の料理にも似る。見るからに旨そうでつい注文したくなるが、実際に食べると至って月並みな味だ。それでも人波が多い通りなので、次々に新規の客が入って店が潰れることはないのと同様だ。

 味も素っ気もない歌でも、CMのように繰り返し繰り返し聴かされると不思議に耳に馴染む。多くの人に認知されて口ずさまれるようになると、いつしかそれが有名曲だと錯覚されて親しみを生むのである。現代のヒット曲はかくして巨額の宣伝費を投じれば、マスコミやネット媒体などが追い風になって話題曲として拡散してくれる。

 世に持て囃されているからと言って、ヒット曲かと問えば違うケースが大半だ。人口に膾炙することで各種の利益を生む構造になっていて、そのための仕掛けが二重、三重に張り繞らされている。その仕掛けを突き破らねば聴き手の心を揺り動かすことは難しい。素朴にいい歌が人の心を捉えた時代は、今や霞の彼方に遠のいた感じがする。

 新曲に見るべきものがなく、聴くべきものがない時代になった。豪雨災害のように間接的に私たちが関与して招いた新時代だが、年老いて他人の歌を歌うカバーが底堅く生き残っている。プロの歌い手として自分のオリジナル曲を歌えばいいものを、わざわざ他人の楽曲を歌っている。先駆けとなったのは徳永英明が女性歌手のヒット曲をアルバムにしたのに始まる。

 「ボーカリスト」と題されて幅広い女性ファンの心を掴んだこのアルバムは、派手な宣伝がないのに空前の売り上げを記録した。シリーズ化されて数年ごとに新アルバムが出されたが、全く売れない新作楽曲を尻目に根強い支持を得た。繊細な感性が捉えた小細工なしのオーソドックスな往年の名曲に、もう一つ二つ違う解釈があることを世に示した。

 第6作を最後に徳永英明は他人のカバーから手を引くが、新曲が売れずに行き詰まり感を感じていた実力派の歌い手に新しい希望を与えることになった。ベテランの領域に達した歌い手が次々カバー・アルバムに挑戦した。それらのアルバムは決して派手に扱われることはなかったが真に歌を愛する飢えていたファンの心に、日照り続きの驟雨のように浸み込んだのである。

 必ずしも全てのカバーアルバムが上出来だとは言えないまでも、現在もなお色褪せていないカバーアルバムが少なからずある。現役の歌い手として最古参の菅原洋一は、好き嫌いの好みを超えて胸を打つし、意外な発見は演歌勢に多く見い出せる。泥臭さを身上とする演歌だが意外とその歌い手に、全く異なる一面が窺えて驚く。

 演歌勢の意外派は吉幾三八代亜紀に代表されると思うが、外連味なく往年の名曲を小細工せずに真っ正面から歌い込んで逃げていない。上手いとか下手とかを超えて聴く人の心を鷲掴みにする。それぞれの歌のオリジナル歌手を凌駕して余りある。名曲は時代を超えて色褪せないが、その歌を愛することの意味まで深く重く問いかけてくる。

 高齢者世代の皆さんは晩年のフランク・シナトラをご存じだろう。一世を風靡した美声も一時代を画してその艶と張りを失った。そんな彼を愛するポール・アンカが、後の世に歌い継がれる名曲「マイウェイ」をプレゼントした。この歌は今も世界中の歌い手や音楽ファンを魅了し続けている。知らぬ人は居まい。

 我が国の大衆歌謡である演歌にも名曲が少なくない。クラシックやジャズに比して演歌を下等だと位置づける「自称教養派や知性派音楽ファン」が多いようだが、私は断じてそうは思わない。音楽にそもそも善し悪しなど存在せず、人の心に残るか否かが色合いを分けると思っている。日本人の誰しもが知る名曲に上げられるのが、八代亜紀が歌った「舟唄」であろう。阿久悠と浜圭介の手になる昭和を代表する名曲になった。

 八代亜紀特有のハスキーボイスは"好き嫌い"を超えて、ニューヨークのジャズクラブを満員にし、本場アメリカのジャズ・ファンを魅了した。日本語の歌詞が分からない「舟唄」が何ゆえ外国人に愛されたのか。決して派手な装飾が施されていない素朴な演歌が、どうして内外の人の心を捉えるのか。ブルースにも通じる音楽の音楽たる所以がそこにある。上等も下等も関係ない、大衆音楽そのものの原点がそこにあると私は思っている。

 潰れただみ声の歌が、整備されたテノールやソプラノの綺麗な歌声を超えて人々を魅了するのは何ゆえか。老いて満足に歌えなくなった歌い手の歌が、激しく心を揺さぶるのは何故だろうか。歌を愛し、音楽を愛して、その歌の一小節に自らの生涯と命を託して歌い上げる歌。どんな装飾も小細工も受け付けない素朴な歌が、時に聴き手の心と体を金縛り状態にする。

 「歌心」と人は言う。歌が聴く人の心に届くかどうかだと私は思う。どんなに優れた歌曲であっても、聴き手の心に届かない歌が数多くある。一部の識者が名曲だと褒めそやして、時代を超えて受け継がれている歌もある。たからと言って、その歌曲が人の心を捕らえるか否かは別物である。大量生産されて次々消えていく数多くの歌にも共通するが、基本中の基本である「歌心」が抜け落ちている。

 年老いて歌えなくなった歌い手が訥々と語るが如く発する"だみ声"は、本来の歌ではない。にも関わらず時として本来の歌を凌駕して大きな感動をもたらす。聴き手は涙し、無意識のうちに両手を合わせて合掌する。身も心も感動に打ち震えて"我を失う"のである。知らず知らず立ち上がり、拍手し両腕を振って感動を伝えようとする。それが「スタンディングオーべーション」、総立ちと表現される現象である。

 時代の推移は歌や音楽が何であるかを変えたように思う。外形の姿・形が注目されて話題になり、多くの人たちに伝わって「有名曲」になる。有名だからと言う理由で多くの人が抵抗感なく受け入れ、受け入れられることが「ヒット曲」の条件化している。そこに「歌心」を見出そうとしても殆どが徒労になる。心に届かず、耳の上を通り過ぎてゆく"歌"が歌だと持て囃されている。

 心が打ち震える歌は老いた歌い手にしか感じられない。「歌心」を失った数多くの歌を量産しても、決して「名曲」は生まれないと私は思っている。