獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

歌心と時代

 近年は耳に届く歌がめっきり減った。といっても歌が減少したわけではなさそうで、滅法数が減ったテレビの歌番組には賑々しく新旧の歌い手が登場する。ネットにはそれなりの情報が満載され、テレビ番組の多くには歌を歌わない歌手や漫才や落語をやらないお笑いタレントが数多く出ている。

 けれどもである。古いと言われるのを承知の上で申し上げると、毎日テレビに出てくるタレントの類いは何ゆえ画面に現れるのかその理由がさっぱり分からない。お笑いのバラエティ番組ならいざ知らず、公共放送の災害特番にまて音痴歌手集団のOGが出てくるのである。しかもそれらのタレントへ公共放送のアナウンサーがコメントを求めている。

 残りの人生が少ない高齢者には不思議きわまりない光景が今や日常的である。一昔前までは凡そ考えられないことが次々現実化している。現代社会ではお笑いタレントや音痴歌手のOGが、専門家として世に認知されている大学教授などの研究者より豊富な知識を有するのであろうか。直截な表現で恐縮だが、一昔前までは「芸人は知的底辺の人種」と認識されていたのが嘘であるかのような有り体である。

 数少ない生き残りの歌番組を見ても、ステージ上に繰り広げられるのは仮装行列のパレードかと見まごうばかりのど派手な衣装の集団が次々登場する。肝心の歌と言えばどれも同じような"取って付けた"ようなお粗末なお決まりである。NHKの歌番組などはそれでも満員の観客がいるようで、ステージ上で繰り広げられるショーには凡そ不釣り合いな中高年者が客席に一杯である。

 言わして貰うならこのNHKの歌番組で、一度でも本物の歌が聴けたことがあったろうか疑わしい。まるで泡のように現れてはすぐに消えていくだけの「命のない歌」を視聴させられて、いつの間にやらそれが「本物の歌」だと勘違いしている人が多くはないか。本物と偽物の区別が曖昧になって、何が何やら分からなくなっているのは何も歌に限ったことではないが、現代に本物を見出すのは容易なことではないようだ。

 最近はテレビに見るべきものがなく聴くべき歌に乏しい現状から、専らアップルのiチューン"musicライブラリー"を聴いている。膨大な新旧の名盤が公開されており、50年代以降の音楽が音楽らしく変貌した時代の変移を耳にすることが出来る。クラシックもさることながらジャズやロックでは、勃興期特有の湧き上がるようなエネルギーと新鮮な感覚が蘇る。

 邦楽・洋楽を問わず新しい時代を予感させるような新鮮味に溢れており、現在耳にする形骸化した音の羅列とは凡そかけ離れた"別世界"に浸ることが出来る。歌い手も演奏者も、年輪を刻むことによって得られる"円熟味"は掛け替えのないものだ。如何に技巧を凝らしても誤魔化すことが出来ない「至高の妙味」がそこにはある。

 人間が人間であることの究極に辿り着いた者だけが表現し得る音に出会った時こそ、止めどなく流れ落ちる熱い涙に人生の至福を実感することが出来る。鳥肌起つ想いや身震いが止まらなくなる瞬間こそ感動そのものである。何が本物で、何が偽物かは、忘れ得ない感動の余韻が残るか否かでも判別することが出来る。

 極論すれば現代は"音痴の時代"と言うことが出来るようだ。プロだと称して高額の稼ぎを得ているものが本物である保証はどこにもない。利益を得るための楽曲や装飾が全盛で、巨額の費用を投じた巧みな宣伝技術が一人歩きしている。本物と偽物の数量で偽物が圧倒する現代は、文字通りの「イミテーションゴールド」だ。音痴であることを恥じる「品位」をどこかで発見するのは、最早至難となった観がある。

 少し古くなるが最近聴いた歌で、松山千春の「きたのうたたち」と吉幾三の「あの頃の青春を詩う」は久々に胸にずしんと響いた。双方ともオリジナル歌曲ではなく、他人が歌った歌のカバーである。松山千春が歌う藤圭子北島三郎吉幾三が歌う都はるみ八代亜紀河島英五加山雄三かぐや姫の名曲には体が震えた。

 名曲とはを云々するのは野暮である。ベートーベンやチャイコフスキーばかりが高尚だとする説にも組みしない。クラシックであろうとジャズやロックであろうと、演歌や民謡であろうと、"良いものは良い"のである。人の心に響く楽曲こそ紛れもなく名曲で、上っ面を撫でて通り過ぎるだけの歌や楽曲は"雑音"に過ぎない。私はそう確信する故にジャンルに拘らず聴き続けてまた。

 凡そ70年数多くの歌や楽曲に接してきた。制作者の一人としてレコーディングスタジオや数々のホールのステージにも立ち会ってきた。スタジオで、ホールのステージの袖で、涙に暮れたのも一度や二度ではない。生きてここにいることが音楽であり、感動で全身が熱くなるのが音楽だと信じてきた。生きている歓びを実感させてくれるもの、それが音楽だとの信念は今も変わらない。

 感動なき時代に音楽は存在し得るか。そんな素朴な疑問を感じている。「音痴の時代」がいつまで続くのか見通せないが、聴く人一人一人の心から「感動」が失われない限り音楽の芸術性は不変だと信じたい。音痴に慣らされてそれを音痴だと感じなくなれば、その時は時代の終わりに留まらず人間世界の終わりだと確信している。

 最後に一言付け加えるとすれば、それにしても今の時代の歌はひど過ぎる。"歌のない時代"とでも命名しようか。