獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

忘れられた歌の真実

 今や世を挙げて「チンドン屋の物真似」が大盛況の観が強い。"チンドン屋"と言っても若い世代の皆さんはご存じなかろうと思うが、敗戦後の焼け野原と化した街々にポツポツと店ができ始めた頃に胸と背中に大きな宣伝看板を掲げて、アコーディオンクラリネットに鉦と太鼓で流行歌や小学唱歌を奏でて街を練り歩いた少人数の集団である。

 "歩く広告塔"の役割を担って、派手なメーキャップで行き交う人々の笑いを誘った。娯楽がない貧しい身なりの子供たちに歓迎されて、大勢の子供たちが後をついて歩いてふざけた仕草で踊ったりした。鉦と太鼓の「チン・ドン」という独特の響きで親しまれ、都会や地方の別なく各地の街々で見られた。

 コマーシャル文化の先駆けであったが、最大の特徴は現代のTV・CMのような押しつけがましい執拗さと誤魔化しがなかったことだろう。日本人が日本人らしい律儀さで店や商品を知らせることに徹していた。本物は本物だと言い、偽物はちょっと怪しいと正直に客に伝えていた。売り手と買い手の双方に暗黙の信頼が有ったのである。

 時代が進化して豊かにはなったが、日本人の心の隅々まで豊かになったかどうかは大いに疑問が残る。時代を写す鏡は各種あるが、貧富の格差に関わりなく広く社会に伝播するという意味で、歌が果たす役割は決して小さくない。その歌が今や危機に瀕していると言って過言ではないだろう。

 好き好きや善し悪しは別として、公共放送を名乗る実質国営放送のNHKが年末の国民的行事だという「紅白歌合戦」を例に取ると、その危機的状況が手に取るように判る。何ゆえ国民的行事なのかはさっぱり判らないが、多大の運営費を費やしての"大仕掛け"の割りに、その中身は大仰な「チンドン屋の物真似」大会である。

 「聴かせるべき歌」がなく、「見せるべき芸」がない現代を象徴して、ステージ上に繰り広げられるパフォーマンスは矢鱈に派手な「騒音大会」そのものだ。最早歌でもなければ芸の範疇でもない。保育園児や幼稚園児なら喜ぶかも知れないが、この程度のお粗末な"国民的行事"を見せられて、それを受け入れている国民の知性と教養を疑わねばなるまい。

 「紅白歌合戦」に登場する新旧の歌手群の多くが、自信を持つ自作曲を披露するならまだしも、大半は使い古したボロ雑巾のような旧作をなぞるだけである。そのこと自体「今年はヒット曲がありません」とプラカードを掲げているようなもので、それでも出場を辞退せずに派手な衣装で出てくる辺りは、プライドや格式の欠片も見当たらない。

 世に言うヒット曲が何ゆえ生まれないか。結論は至って単純である。「売れる曲」「儲かる曲」のみに神経が集中して、音楽性や歌の真実が忘れ去られている。人間が人間であることを忘れたら、何が残るかを考えれば良い。日本人が日本人であることに気づかなくて、グローバル人にでもなったのだろうか。

 効率と利益が最優先される時代に、日本人の情緒や感性は最早"役立たず"であるらしい。新旧の日本文化は顧みるに値しないらしいが、パソコン上の"でっち上げ歌曲"で効率よく利益を得る音楽文化が、どうして真の「音楽文化」と呼べるのか。素朴に訥々と歌った三橋美智也が何ゆえ一世を風靡したのか。

 言うまでもなく歌は上手い、下手ではない。現在の小綺麗に飾られて、ただそれだけの味気ない歌が人の心に響くか。人の心に沁み入るか。ただ上手いだけならカラオケに興じる素人の方が余程上手い。人間には心があることを忘れている。音楽現場の学ぶことを忘れた小賢しい秀才諸君達には、感動とは何かがお判りになっていないらしい。

 教室で学ぶ知識や音楽も大切だが、日々の暮らしは日常の中にある。その何気ない日常に潜む歌の真実は、豊かで便利な時代に飼い慣らされた感性には響かないだろう。他人の誰かを真似たりなぞるだけでは、歌の真実は決して伝わらない。「創造」という言葉を良く良く吟味することだ。それは決して単なる"物真似"ではない。

 国営放送(?)NHKが率先して「バカ騒ぎ大会」に夢中になっている様は、まるで世紀末であるかの様相だ。股旅演歌の歌い手がキンキラの派手な洋服でステップを踏み、それが大受けしてヒットになる時代だから、NHKの「チンドン屋の物真似」が国民的行事になって不思議ではないのだろう。

 本物の歌が聴けない時代である。"ど派手"なだけのチンケな歌ばかり聴かされ、それに慣らされてそれを本物だと取り違えてる人が多いご時世だ。本物はいつまでも「過去の遺物」にならない。古い歌にこそ真実があると思うのは、単なる高齢者のノスタルジーだと誰が断じ得ようか。

 この時代だからこそ商業主義に背を向け続けた内田裕也が懐かしく、久しぶりに聴いたBOROに涙するのである。あーあー……