獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

アーチストの賞味期限

 私たちは毎日の生活の中で食品の賞味期限を気にしながら暮らしている。食品の種類によって違いがあって期限通りのものもあれば、賞味期限が過ぎても美味しく食べられるものもある。中には賞味期限ギリギリか、少し過ぎたくらいがむしろ美味しいものが少なくない。生野菜やフルーツの類いがそれで、収穫後も生きて成熟し続ける。同じ生鮮食品でも肉や魚類は鮮度が生命線で、古くなるほど味が落ちる。

 私たちの身の周りに存在し続ける歌や音楽はどうであろうか。何度も繰り返して耳にして馴染みが深くなるほど愛着が強まるものがある一方で、その愛着を感じる名曲を生み出したアーチストの新曲に失望した体験は数多くあるだろう。中には同じ作者の作品とは思えないものや、多くの人に支持された曲想を連綿と踏襲しているだけのものなどが目や耳につく。

 喜怒哀楽を噛み締めて生きている人間が、去年や昨日と寸分側ぬ筈はない。それなのに臆面もなく旧態依然とした曲想を公表して涼しい顔をしているアーチストが少なくない。歌を例に取れば他人が作詞・作曲した歌を歌唱するだけの人と、歌詞や曲そのものを自分で創作する人とに分かれる。そのどちらが優れているとか、優れていないとの議論ではなく、そのいずれであっても全身全霊を託してプロフェッショナルに徹しているか否かで存在感に大差が生じる。

 例え他人の作った歌を歌唱するだけの人でも、そのことに徹して自らの命を懸ければ聴く人の心を捉えるだろう。どれだけ真剣に歌を愛し、その歌と向き合っているかがプロのプロたる所以である。豊かで便利になった現代に、そう認められる本物のプロが何人居るだろうか。器用に繕って聴き手に媚びる手法が一般化して、目立つために派手に装い幼稚な物真似ダンスを披露する。その類いは悪いがプロフェッショナルとは言わない。

 豊かで便利になった現代は、社会のあらゆる分野で「勘違い」や「思い違い」が氾濫しているようだ。低俗な大衆に媚びる質の低い文化がいつの間にか蔓延して、世の中全体にコロナウイルス同様に感染拡大しているらしい。本物の歌が持つ迫力や重量感が忘れ去られようとしている観が見え隠れする。安っぽい陳腐な歌ばかりに接していると聴き手の感性も低下する。低質化した聴き手に比例して、高品質の歌や音楽は登場しない。

 自ら作詞・作曲を手がける創作アーチストは、ヒット作に恵まれて業界やマスコミに持て囃されると不思議に感性が一変するケースや、感性そのものが失われてしまうケースが目立つ。自ら墓穴を掘っているケースすらある。プロフェッショナルとは何かが理解されないままポーズだけが目立つようになり、前作を踏襲するばかりの繰り返しになる傾向が顕著だ。

 巨額の収入を得ると政策や人間性まで一変する政治家によく似ている。内容や能力が伴わないままプロとして世間に持て囃される悲劇とも言えるが、その手合いが現代はやたらに増えた観がある。その原因や形態を追求してみたところで詮ないことで、理屈で芸術性を云々するほど馬鹿げた論争はない。才能は人工的な加工技術ではない。

 誰彼とここで名前を列挙するのは遠慮するが、その手のアーチストには事欠かない。一昔前に何作かヒット曲を出したアーチストで、見る影も失った現在も臆面もなく表舞台に登場している人たちが山ほど居る。無名時代の新鮮な感覚は欠片さえ見出すのが困難だ。極論すれば"生ける屍"とさえ言えるその手のアーチストは、食品同様の賞味期限が必要のようだ。

 本人にその自覚がない分だけ厄介な存在でもあるが、有名だからと言う理由でその"生ける屍"を愛する「物好き」もまた少なからず居るから世の中は分からない。所詮は「蓼食う虫も好き好き」ということかと納得せねばならないようだ。煮て食うか、焼いて食うか、はたまた生のままで食うかは、それぞれの「好み」に帰するのかも知れない。

 時代が豊かになれば逆比例してヒット曲が生まれなくなる。生きる意味を問う真剣勝負よりも、小手先で飾り付けた歌や音楽が全盛になる。生まれては次々消えてゆく運命の歌や音楽が量産され、派手な宣伝に惑わされてそれらに飛びつく"自称音楽ファン"が急増する。その典型例が公共放送NHKがテレビで放送している「うたコン」だろう。新曲に見るべきもの、聴くべきものがないので、古い歌の焼き直しでお茶を濁している。

 賞味期限切れの懐かしい顔が久しぶりに登場して、カビが生えた旧曲を臆面もなく披露する。それを喜んで行列して会場へ足を運ぶ"自称音楽ファン"の中高年者が山ほど居るのが哀れを誘う。少年・少女のグループが登場して歌やダンスを披瀝するのを、「訳も分からないまま」ペンライトを振って応援する。この人たちにとって歌や音楽って何なのだろうか。野球場やサッカー場を埋め尽くして、音痴なタレントの立ち居振る舞いに総立ちで応える音痴な若者層とどこが違うのだろうか。

 賞味期限切れは歌い手や演奏する側ばかりではない。聴衆の側にこそ必要なのかも知れないと私は思っている。有り余って溢れている歌や音楽はどうだろう。その中の何曲が人々の心を捉えて未来へ受け継がれるだろうか。大半は賞味期限が切れる前に光彩を失い、廃棄物化する。だがなぜか、不思議にアーチストとかタレントと名がつく人種はリサイクルされずに残る。"有害ゴミ"でないと誰が言えるのか。