獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

人間の賞味期限

 私たちは日頃口にする食品の賞味期限を気にする。別段その賞味期限が多少過ぎても、食べられないわけではないのに妙に拘りを持って確認する。それなのに人間としての自分の賞味期限を考えたことがあるだろうか。人間は食べ物ではないので不遜で語弊があるが、ものの例えとしてご容赦願う次第である。

 人の世に人として生まれて、人はそれぞれに長短様々な彩りを帯びて人生を生きる。必ずしも本意ではない過程にあっても、迷い立ち止まりながらも夢中で懸命に人生を生き抜く。人それぞれにそれぞれの人生があるように、人間としての価値や存在感もまた様々である。食べ物も人間も命あるものは等しく広い意味で賞味期限を有する。尽きる宿命の命を生きているからだ。

 命そもそものは賞味期限がない。生物としての命を終えても、その後にむしろ永遠につながる存在感を示すものが数々ある。文化財などの古い建築物に使われた木材は数百年の年月に耐えて黒光りする威光を放つ。死してなお余りある存在感を誇示している。生きるとは何かを無言で私たちに語りかけているのである。

 人間はややもすると色々な場面で勘違いしているように思われる。生きていることを過大に評価し、死せる後に視点を向けることが極度に少ない。芸術作品は作者の死後も長く愛され続け、永遠に不滅の価値と存在感を示し続ける。多くの食品は人間や動物の口に入ってその使命を終えるが、その動物も"死して皮を残す"のである。人間はどうか。

 人間の人間としての価値はいずれにあるのか。単純に定義できるほど生易しくはないが、若し賞味期限があるとすればピリオドは人それぞれに異なるだろう。場合によっては永久にピリオドがない人も存在するだろうし、誰の目にも明らかなピリオドを持つ人も居よう。賞味期限はあくまで賞味期限で、味の優劣や評価する人の好みとは無関係である。

 賞味期限と一口に言っても他人が評価判定する場合と、自分自身が評価判定するのとでは大差が生じるだろう。"贔屓の引き倒し"は決して例外ではない。食品の場合は消費者が自分で判断できないから、業者や業界が一定基準に基づいて制定している。それならば人間の賞味期限も同じように、第三者機関を設けて判定すればどうか。

 死して芸術作品や皮や遺構を残せる人は多くは居ない。人間は多くの場合家族や友人の胸にはある程度残っても、その後は芥のように時間の谷間に消えていく。太古より営々と繰り返されているが、生きている人間の記憶に残るのはほんの些少に過ぎない。賞味期限を精一杯生きても、期限内に不完全燃焼して尽きても、消えていく瞬間は同じだ。

 死せる後の評価は生きた過程で定まる。中には死後に評価が高まる人も居るが、大抵は賞味期限と無関係ではない。存在感の大小と軽重を身内や他人の胸に遺して消え去る。賞味期限があっても、なくても、人はそれぞれにそれぞれの人生を生きるのである。その色や形は見る人によって異なるだろう。賞味期限の長短もまたそれぞれである。

 時には自分自身の賞味期限を考えてみるのも一興である。普段気がつかない意外な発見や失望が見つかるだろう。自分とは何者かを知る掛け替えがない"よすが"になるだろう。食物や眼に鮮やかな花々の命を知れば、相対している自分の命が実感できるだろう。そしてそれらを意識した時に、自分自身の賞味期限が朧気ながら見えてくるだろう。

 人間も、自分も、万物はそれぞれに限りある命を生きているのである。