獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

過ぎゆく日々

"光陰矢のごとし"と言われたのは随分昔だが、高齢者となって死期と対峙するようになってもやはり年月の流れは速い。大小を問わず様々なことに関心を払わねば、何が何やら分からぬままに時間だけが通り過ぎていく観が強い。それだけ時代や世間と関わりが薄れた証左とも言えるが、理由の如何を問わず"置いてけぼり"を食うのは気分が良いものではない。

 色々な分野から引退して久しくなったが、当人は現役を決め込んでいても全ての物事が素知らぬ顔をして私の前を通り過ぎていく。ただ通り過ぎるのみで特別の感慨など湧く筈もない。歳を取ると言うことの現実を嫌が応にも実感させられる。それは気づかぬ間に自分が他人や世間に対する関心を失っていることでもあるのだが、そのこと自体に気づくにも相当の決意と訓練を要する。

 ただ漫然としていたのでは失われるものはその程度に留まらない。当人が気づこうが気づくまいが、そんなことにはお構いなしに長い人生で蓄積された掛け替えのない貴重な"財産"が「光陰矢の如く」失われてゆく。失ったら二度と取り戻せないそれらの"財産"はそれぞれに独自のものゆえ、他人を真似ても回復は覚束ない。

 過ぎ去った青春がそうであるように、目に見える財産も見えない財産も失われてから気づくことが多いようだ。それゆえ気づいた時には既に遅く、失ってもぬけの空になった抜け殻の大きさに改めて驚くだろう。それは自分が生きて歩んだ足跡と共に、紛れもなく自身の人生そのものだ。自身が墓場へ持っていくことも出来ず、家族や他人に受け渡すことも出来ない見えない巨大な塊だ。

 折角知らぬ間に築かれた掛け替えのない"財産"を、有効活用する術がないまま放置されている御仁たちが数多く居る。そればかりか無為に朽ちさせている方々が多い。過ぎてゆく月日の中で少しなりと自分を取り戻さねば、各自の"財産"は風雨に晒されて色褪せ、やがて風に飛ばされ雨に流されて消えてゆく。

 呆然と来る日を迎えてもそれはオリジナルの人生ではない。少しなりと自分らしく、自分の生活と人生を組み立てて実行しないと、"光陰矢の如き"時間は待ってはくれない。無情に過ぎ去るだけだ。生きていることから引退は出来ないのである。好むと好まざるとに関わらず、生きている限りは現役である。