獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

見えぬ不幸と聞こえぬ不幸

 人間年齢を重ねると様々な現象に出くわすが、取り分け身体機能の衰えは悲哀を伴う。自然現象なので如何ともしがたいが、日を追って深まる衰退に抵抗するすべがない。医学の助けを借りるにも、最新の知識と技術を以てしても打つ手がないと宣告されて、温和しく自然の摂理を受け入れる以外方法がないのである。

 眼の「加齢黄斑変性」はIP細胞の移植手術を待つしかないが、未だその技術が普及したとは言えず保険制度への適用も実現していない。実際問題として老い先短い高齢者がハイリスクを抱えて手術に踏み切れるかどうかという問題もある。この数年継続している症状の進行を抑える効果が認められるサプリメントの服用以外、有効な手立てがない。

 耳の難聴は聴覚神経の加齢衰退によることが各種検査で判明しているが、鼓膜の不具合と違って補聴器を使用しても効果が得られない。日常の会話やテレビの音声などの、音量を大きくしても殆ど意味を成さない。若干なりと効果が得られるのは至近距離での会話や、テレビの前に囓りつくようにする以外打つ手がないのである。

 身体機能は当たり前に動くのが普通だと認識していたが、いざその機能が失われ始めてそれぞれがいかに重要であるかに気づく。人間は何や可や理屈をつけて体裁を繕っても、所詮は非力な動物であることを改めて認識させられる。幸い不自由ながらも未だ目は見えているし、微かながらも耳も聞こえている。それだけでも限りなく幸せを感じる不思議な毎日を過ごしている。

 若き日々の青春は過ぎ去ってみて、始めてその輝きと掛け替えのなさに気づかされるように、当たり前だと思って意識することなく過ごして来た毎日の生活から、その一部機能が失われて慌てふためくのが人間だ。得るものと失うものとの相克を繰り返しながら、人生は音も立てずに過ぎ去ってゆく。音は聞こえている時に気づかず、聞こえなくなってから聞こえたり、目に見えたりする。

 当たり前だと思っていた眼や耳が、目で見る音があることや、耳で感じる風の気配や景色もあることを思い知らされる。普段「謙虚」という言葉を気軽に口にするが、私たちは本当に自分や他人に謙虚だろうかと思わせられる。知っているつもりでも、実は必ずしも自分自身が分かっていないのではないか。自分自身すら覚束ないのに、どうして他人を推し量り理解できようか。

 それでも私たちは何食わぬ顔で毎日を生きている。当たり前に目が見えて、当たり前に耳が聞こえているのに、なのに人生模様が見えず聞こえない。必ずしも十分努力したか否かに多少の疑問符が残っても、自らを省みることなく日常と融和している。それが当たり前で、それが普通だと勝手に信じ込んでいる。

 長い坂道は登り切って始めて上の景色が見える。風や光に音があることを感じる。訪れる音と去って行く音が聞こえるだろうか。一つ一つ違う風や光の中にいる自分を感じているだろうか。目で見る景色や耳で聞く音の他に、心で感じる視覚と聴覚があることにお気づきだろうか。研ぎ澄ませればするほど、人それぞれの心のフイルターを通った澄んだ世界がそこにある。

 目で見ることに慣れて、耳で聞くことに慣れて、人間には五感があることに気づかないまま毎日を過ごしては居ないだろうか。目が満足に見えず、耳が満足に聞こえない高齢者は、幸いである。必ずしも嘆き悲しむ必要はないのではないか。自分次第で見知らぬもう一つの世界へ辿り着くことが出来るから。そのことに気づくと少し心が和らぎ、少し希望が湧いてくるから不思議である。