獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

「暇で退屈」と平凡・非凡

 世の中で屡々耳にするセリフに「暇で退屈だ」というのがある。比較的頻繁に使われているので、日常の色々な場面でお馴染みだ。人によりけりだと思うが、そう思う人が居る一方で、逆に凡そ暇や退屈と無縁な人も居る。人間は実に面白い存在だと改めて思うが、私自身は後者に属する人間だ。

 "類は友を呼ぶ"と言われるが、何故か不思議に周囲を見渡すと同類の人種が多いのに改めて驚かされる。生前親しく接して尊敬していた方々の殆どが他界されて、その同類はいつしか私一人になった。私が知る限りの「暇や退屈と無縁の人物」代表格が、遊記山人と号された書人宮田翁である。数多の中国清朝末期を代表される文人と交遊して、我が国書壇の孤峰と言われ101歳で生涯を終えた。

 特筆すべきは亡くなる前日まで、愛用の漢和辞典を片時も手放さなかったことである。編纂者を知っているという理由で大修館書店版の辞書を愛用されたが、身近にお目に掛かる機会が多いごく普通の辞書である。文字が小さくご老体には見づらいと思うのだが、何故か終生愛用された。

 当時は杉並区内の近くに住んでいたので昼夜を問わずその生活を拝見しているが、90歳を超えてからも一日24時間寝ている間を除いて勉学に明け暮れた。家族や、側近として付き添った私が健康を気遣っても、当人は一向に頓着せず墨だらけになって書作と格闘する毎日だった。ともかく少しでも時間があれば惜しむように辞書を開き、膨大な漢籍書物と取り組まれるのである。

 「大漢和辞典」の編纂で文化勲章を受章された諸橋轍次博士が、「我が国最高の漢文の権威だ」と絶賛されたが、決して生真面目な特別の人ではなかった。耳は聞こえずともユーモアを失わず、接する相手を愉快にさせる不思議な方であった。長年の書作で腰は"くの字"に折れ曲がり、右手人差し指は筆に添って丸く曲がっている。

 外出や移動の車の中でも外の景色を食い入るように見つめ、どんな微少な変化をも見逃さなかった。何事にも全神経を集中して、凡そ「暇や退屈」が恐れを成して逃げ出すような張り詰めた気持ちを失わない方だった。愛用の漢和辞書は全体がボロボロで、表紙や表側のページは墨と手垢汚れで文字が判読出来ないほどであった。

 亡くなられた後で遺品となったボロボロの漢和辞書は、側近の一人であった池田元講談社編集局長に引き取られた。50万円でも100万円でも良いから譲り受けたいと熱望され、形見分けとして無償で提供された。この池田元講談社編集局長の父君は、有名な国語学の権威池田亀鑑博士である。誠に"類は友を呼ぶ"のである。

 生前の側近者の中には皇室写真家田平嘉男氏や、"天皇の料理番"として有名な秋山元司厨長を始め、ノーベル賞作家川端康成氏や日本画壇の至宝東山魁夷氏などそれぞれの分野で我が国を代表される方々ばかりだったが、どの方を見ても一瞬足りとて暇を持て余すタイプの人は居なかった。時代を担い、時代に記憶されるような方々は、所詮私などとは人種が違うのだと思い続けてきたが、それぞれの方々が発するオーラは半端ではなかった。

 いつの間にか目の前の方々から感染したようで、私自身「暇や退屈」を感じたことがない。いつどこでも一生懸命ものを見て、一生懸命思索する習慣が乗り移ってしまった。考えること自体が楽しく、未知の世界や知識を思うだけで心躍る気がするのである。往時出会った劇団四季の幹部宮部昭夫氏が練習生に言われていた「世界は見本や標本の宝庫だ」に、改めて同感する。

 人間世界は一瞬も休まず動き続けている。すべてが姿や形を変えて移ろうのである。それらの一つ一つに命が宿っており、同じままに流れ去ることがない。その躍動する命が目の前にあるにに気づかなければ、感動は生まれない。見本や標本が目の前で生きて躍動していることに気づかなければ、どんなに優れた演劇論も意味を成さない。との大意であったと記憶している。

 「暇で退屈」はそれらの限りない輝きを見失うことである。否失っていることかも知れない。見えるものが見えず、聞こえる音が聞こえないことだ。「暇で退屈」な感性からは何も生まれない。暇はそこにあるのではなく、退屈も誰かが置き忘れた訳ではない。自分自身の心に生じた"綻び"である。自分自身が生み出した「心の鈍化」に過ぎない。

 私の周囲に存在した「暇や退屈と無縁の方々」は、どなたも一生懸命自分と向き合い、何事も誤魔化さずにひたむきに努力された。その結果として余人が及ぶことのない至高の境地に辿り着かれている。どちらを向いても、それらの方々ばかりであった往時の私の生活は、掛け替えのない財産に囲まれて触発され輝きに満ちていた。

 ごく普通の凡人でも"朱に染まれば赤くなる"らしい。老境が日に日に深まる現在になって、改めて失われたものや得たものの大きさに気づかされている。人生は「ノーリターン」である。1度しかない時間と感じるか、それとも「暇で退屈だ」と感じるか、その違いで手にする結果は大きく異なるのである。平凡と非凡の境目はその辺りに潜んでいるようだ。