獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

辞書の愉しみ

 世の中には色々な趣味をお持ちの御仁が居られるが、私の趣味の一つが辞書である。辞書とはとんとご縁がないという方も少なくないと思うが、私の場合は社会人デビューが国立大学の附属図書館司書だったので、否応なく膨大な書物の谷間での生活を余儀なくされた。元々かなりの読書少年であったので、少々黴び臭い書庫が嫌いではなかった。

 特に辞書と辞典類には目がないほど好きだったので、終日書庫の中で過ごす日が続いても苦痛ではなかった。調べようと思う特定の目的があっても、無くても、無数の書物に囲まれているのが言うにいわれぬ至福の時間だった。多忙な時間帯はそれなりに仕事に追われるが、その合間、合間に自由に使える時間が増えるにつれて、辞書を開くのが極上の楽しみになった。

 特定の分野にこだわりがある訳ではないので、時間がある時はほぼ無差別に色々な辞書や辞典類を開いた。読み進むにつれて未だ見ぬ世界が拡がり、自分だけの小宇宙が目の前に展開された。若い好奇心は刺激に敏感で、次々と様々な学習意欲を掻き立てられた。辞書類との付き合いはそれ以来長く、憚りながら辞書を開くのが面倒だとは一度も感じたことがない。

 しかし、寄る年波で視力が衰え、加えて「加齢黄斑変性」で片目がグニャグニャに見える。病気自体は両眼にあるが不幸中の幸いで片目の症状が未だ軽いので、何とか生活が出来ている。そんな状態ゆえ長年連れ添ってきた古女房ならぬ古い辞書類と、別れねばならない日が来た。机上版ならぬ普通版を愛用してきたので、小さな文字の判読が困難になったためである。

 齢80となってまず「広辞苑第七版」電子版を購入した。次いで「角川新字源改訂新版」の電子版を購入した。目下は「類語辞典」を物色中である。日本語にこだわりが強いので類書辞典類を多数所持しているが、世情で評判のもの以外は電子版がないので断念した。使い始めて気がついたが、大学図書館時代から慣れ親しんだ「辞書引き」という作業が不要なのである。

 必要な言葉や項目を入力すると、パソコンが瞬時に「辞書を引いてくれる」のだ。これには驚いたと同時に、長年躰に染みついた習慣が失われたことに一抹の寂しさを覚えた。「豊かで便利な社会」と言われる現代の、相反する「浅学傾向」が垣間見えた気がした。時代と共に「学ぶこと」の本質が、様変わりしつつあるのを実感した思いである。

 高齢者ゆえの特別な感覚なのかも知れないが、「学ぶ」という行為は躰の五感を通して身につけるものと認識してきた。それぞれの感覚で記憶されてその人のものになり、忘れ難い財産になると思ってきた。軽重はともかくとして躰を動かす作業を伴って、五感に刻み込まれるその作業が消えたのだ。

 簡単に得られるものはまた簡単に失われる傾向が顕著だ。「右の耳から入って左の耳から抜ける」と言われるように、留まることなく通過する風のような「学び」が主流になっている。「浅学の時代」とも言える傾向が一段と強まり、最早大学は学びの場ではなく遊びの場に変貌したようである。「便利であること」が、必ずしも「豊かさ」をもたらすか否かには議論が必要のようだ。

 「辞書は辞書にして辞書にあらず」との、不思議な感覚を覚えざるを得ない。ともあれ視力が覚束ない高齢者にとっては、善し悪しを別にした「便利さ」が何とも妙であり、かつ愉快である。辞書の存在と役割もまた時代と共に変わっていくのだろうか。往時と違う愉しみがあることを思い知らされながら、日々電子辞書に親しんでいる。