獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

救い救われる命

 UR賃貸住宅の我が家の玄関に、黒光りがするアルミ製の弥勒菩薩の尊顔が掛かっている。有名な中宮寺の半跏思惟像の尊顔レプリカである。随分長いこと我が家に滞在されているので、かなり古びて所々に塗色の欠け落ちや傷が目立つようになった。古美術品として見てもお世辞に値段が付くほどの高級品ではない。

 長く全国の本山や寺院と関わり、数々の古代仏と付き合ってきた。幾百体もの古代仏が私の目の前を通ってそれぞれの宗旨・宗派の寺院へ納まった。その縁でこれまで色々な大小様々な本物やレプリカの類いを戴いた。その殆どは欲しいと希望する方々へ差し上げたり、お譲りしてきた。現在残っているのは玄関の弥勒菩薩の尊顔だけになった。

 特別愛着や執心があって残したわけではないのだが、本音を言えばたまたまの巡り合わせで残っただけである。但し仏教者の端くれでも、信仰に関わり合う者はそう言ってはいけないのである。恐れ多くも御仏に対して不遜のそしりを免れ得ない。ここら辺りが出家と在家の違いなのだが、私の場合は仏教者ではあっても出家をしていないので少し相違がある。

 弥勒菩薩は知る人ぞ知る、お釈迦様の釈尊に次いで御仏になると約束された菩薩である。釈尊入滅後56億7千万年の後この世に下生(げしょう)して、竜華三会(りゅうげさんね)の説法によって釈尊の救いに洩れた衆生をことごとく済度するという未来仏。[広辞苑 第7版] 仏教に信仰のあるなしに関わらず、誠に有難い御仏である。

 それを信じるか否かは個人の自由だが、すぐに何らかの御利益にありつけるという類いの御仏では決してない。直言すれば損得に関係ない御仏らしい御仏だとも言える。救うのは御仏ではなくとどのつまりは自分自身だと気づけば、人間はこの世に生きたまま悟りの境地にいたり自らが御仏になる。

 仏教者の言葉に嘘はないが、世間の坊さんの話は何やら"嘘くさい"と感じている方々が多いだろう。病院や刑務所などで臨終間近になると、誰頼むとなく僧侶が招かれ立ち会うことになる。本来はそれなりに意味を持つ行為なのだが、いつしか形式だけが尊重される無意味な形骸に陥ったままだ。人間の命の終末がビジネスに直結する時代だから、あながちそれを非難も出来ないご時世である。

 人間はどうあがいても限りある命である。私のように常に目の前に終わりがちらついている人間もいれば、健康で自分の命に気づかない人さえいる。例え今がどうであれ、やがて誰しもに平等に終わりはやって来る。その時になって慌てて救われたいと願っても、多分それは無理だろう。病気と同様に"手遅れ"になるかどうかは、冷酷だが自分次第だ。

 救われるということを実感しようと思ったら、まず手始めに他人を救ってみることだ。相手が真に救われれば、その救いは自分自身に跳ね返ってくる。他人の痛さや悲しみが強いほど、自分自身もまた血を流さねば救うことは出来ない。単なる言葉遊びやシミュレーションではないのだ。命のやりとりとはそういうことである。

 自分自身の中にある「恐れ」を取り除くには、そこから逃げずに真っ正面から立ち向かうことである。涙も出ない辛さや哀しみを全身で受け止めた時に始めて、生きている実感が五感に満ちるだろう。その貴重な体験の上に、自らが御仏に近づきつつあるのを感じるだろう。その背後には目に見えない幾筋もの光が輝き出すが、それが「御光」である。

 生身の人間が他人を救うのも、自分自身を救うのも、決して容易なことではない。それ相応の決意と覚悟をもって挑戦すべきである。