獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

「優しさ」の勘違い

 子供と大人の世界に限らず、男と女の世界でも「優しさ」が持て囃される。"豊かで便利な時代"はそれほどまでに「優しさ」が欠乏した時代なのであろうかと、時々不思議な感慨を覚える。確かに肉親や他人を殺傷する刑事事件が続発し、テレビや新聞、週刊誌などは"大忙し"で恩恵に浴しているようだ。

 男と女の世界では今も昔も「優しさ」がキーワードで、何がなくてもそれがあれば求愛に事欠くことはないようだ。現代は若い実の親が我が子を手にかけて殺傷する時代だ。その親とて日頃から極悪非道人として知られていたわけではない。むしろ子供に「優しい」親であったと世に伝えられている。

 温厚で柔和な親や"普通の人"が、何ゆえ突然蛮行に及ぶのか。男女の世界でも、「優しさ」に惹かれて恋人同士になった二人が、なぜ急速に仲が冷え込んでしまうのか。人間同士を結ぶ「優しさ」という箍が狂ったり、変化してしまったのだろうか。時代と共に人間関係が希薄になり、損得勘定と恨みや憎悪感情の赴くままの時代になったのだろうか。

 様々な要因が考えられるが、そのどれもが確定的要素に乏しい感じがする。外的要因よりも、むしろ人それぞれの心に内在する「優しさ」そのものに問題がありはしないか。「優しさ」とは何かを考えると、まず日本人の心に思い浮かぶのは仏の慈悲だろう。それぞれの仏像が示す無限の柔和な「慈悲心」こそ、身近な「優しさ」の源泉であろう。

 少し抹香臭い話になるが、仏教者であるなしに関わらず万人共通の「優しさ」を求めれば、辿り着く究極の果ては宗教になる。その御仏でさえ、想像を絶する苦悩と苦難の果てに無限の 「慈悲心」の境地に辿り着いている。「優しさ」の本質は「厳しさ」と表裏一体なのである。単なる見せかけの"親切心"とは全く異なるのだ。

 極論すれば「本当の優しさは、本当の厳しさの中にある」と言わねばならないだろう。身を切る厳しさを知る者にこそ、その裏返しとして本物の「優しさ」は備わるのである。世の中で持て囃されているバーゲンセールの如き「優しさ」の多くは、"優しさを装った偽装品"であることに思いを致さねばならないだろう。

 見せかけの「優しさ」は誰でもが装うことが出来る。一時的に相手の気を惹きたい時に、相手が喜びそうな語句や態度を示して心を鷲掴みにする行為は、何も政治家の専売特許ではない。私達の日常生活全般に数限りなく存在する。"優しい筈の人"が突然変貌したのではなく、変貌した姿がその人の真実なのである。

 世に溢れる"安かろう、悪かろう"の「優しさ」は、世界を席捲する中国製品さながらに、私達の身近なところに数多ある。粗悪品を掴まされて後悔するよりは、素材そのものを見る目を養うか、「君子危うきに近寄らず」が無難だろう。生きている人間を吟味するのは言う程に容易くはないが、安易に手を出すと火傷することを戒めとせねばなるまい。

 ものには須く「本物」と「偽物」がある。誰しもが分かっては居るのだが、いざとなると判断力が鈍るのが現実だろう。"目利き"をするにはそれ相応のキャリアを積まねばならないが、兎も角も安易な「優しさ」に飛びついたり、無警戒に受け入れると相応の負担が伴う。傷を負い、時には命さえ危うくなりかねないのを承知であれば、最早何をか況んやである。