獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

日本語と日本人

 世には種々雑多な人種が生息する。細長い島国の我が国も江戸時代までの鎖国とは異なり、現代は在来種族のみならず海外からの輸入種族も増えて賑々しくなった。肌の色も一様ではなく、黄色に加えて白あり黒ありで、飛び交う言語も様々である。不思議な時代と言えば、どう見ても日本人とは思えない肌色の人が、びっくりするような流暢な日本語を話す例が珍しくない。

 日本人だから当然日本語に通じて、日本の歴史や文化に豊富な知識を持つと思いがちだが、どっこいそうは問屋が卸さない複雑な時代である。良くも悪くも島国育ちの習性で、自分たちの足元よりも海の向こうに諸々の関心が向くようで、肝心の日本についての知識となると些か心許ない御仁が多いようだ。

 戦前・戦後を通じて一貫しているが、意外なほど日本を知らない日本人が多いということにさえ気づかない向きが少なくない。特に戦後は途方もない貧しさからスタートしたので、明るく豊かに見えた海外の生活が羨望の的だった。殆どの日本人が日本について学ぶよりも、海外の文化に目が向いた。そのことを奇異に感じる日本人はまず居なかったろう。

 外国語を学ぶことが豊かさへのエスカレーターに乗ることで、敗戦でボロボロになった日本文化を敢えて学ぼうという人は稀少派だった。その戦後の風潮が根強く燻り続けて、私達日本人は世界に例を見ない自国文化に無知で無関心な民族になった。一通りの英語は話せても、正確な日本語を話せる人はごく僅かである。

 そんな奇妙な日本と日本人だが、日本に留学してくる外国人は一昔前まで驚くほど日本について学んでいた。私は縁あって東大大学院へ留学している中国人男女学生にアルバイトに来て貰ったことが数回あるが、仕事で各地の寺院へ同行する度に多くの僧侶が驚嘆の声を上げた。仏教のプロが驚くほど日本の歴史ばかりでなく、仏教史や文化全般に精通しているのである。

 これだけの知識を持つ日本人が何人居るかと問わねばならないほど、彼ら彼女らは実に良く勉強していた。日本人であることが恥ずかしくなるような、顔から火が出るような思いを再三体験している。彼ら彼女らが同行した寺院でも初体験だったようで、それから長い年月を経ても話題になるほど鮮烈な印象を残したようだ。

 日本人として改めて日本文化と向き合う機会はそう多くはないだろう。豊かで便利になった現代は、外国語が話せなくても不自由なく海外旅行が出来る。言葉を理解することは即ちその国の文化を知ることでもある。折角高い旅費を費やして海外へ出掛けても、ただ単に絵はがきのような有名観光地を巡るだけでは、その国や地域を理解するのとは程遠いだろう。

 かくして日本人だからという理由で日本語を学ぶ人は少なく、当然ながら言葉を理解せずに歴史や文化を知るには無理がある。日本人だから日本語とその背景を学ぶべきなのに、多くの日本人が"手抜き"して怪しげな芸人言葉に押し流されている。言葉を磨き、言葉に命を与えてきた古典落語の名手が激減して、凡そ修行や修練と無縁な"へんちくりんな"漫才コンビが時代を担っている。

 日本語はどこへ行くのだろうか。日本語が怪しくなれば、それはそのまま日本文化が怪しくなることだ。日本人が日本人であるために、お互いを知る重要な手段の言葉を見失い、土台やルーツを見失って、どこへどう漂流していくのだろうか。「私は日本人だ」と自信を持って言える日は来るのだろうか。そんな危惧を抱く陽春の一日である。