獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

ものを書く習慣

 誠に日本語は難しい。日常会話で話している時は別段感じないが、いざ文章を書く段になると様相が一変する。アルファベット26文字で足りる英語圏の人たちが羨ましく思えてくる。日本語は仮名文字に混じって膨大な数の漢字がある。元々が中国からの渡来品なので、日本の暮らしに馴染みのないものが多数含まれている。

 「大漢和辞典」の編纂で文化勲章を受章された(故)諸橋轍次博士と親交のあった方と親しく過ごした時期があるが、常々言葉の海は果てしがないとおっしゃっておられたとお聞きした。いくら力んで泳いでも泳ぎ着かないのが言葉の海だとの意だという。偉人の領域には遠く及ばないが、日頃拙い文章を書いていて広大な海原を想像することが稀にある。

 時代が進化して豊かで便利になるほど、何故か言葉は省略されて符丁のようになる。昔は近所の八百屋さんや魚屋さんなどで耳にした意味不明の単語が、どういう訳か現代社会で重宝されて使われている。特に若い世代に目立つが、「女子高生言葉」などはその代表的なものだろう。それ以外にもSNSの普及で多用されるようになったメール言葉もある。

 時代は諸橋博士が思い描いた世界とは別の、異次元の世界へと足を踏み入れた観がある。言語学的に見れば日本語は世界に冠たる難関らしい。東大の大学院へ中国から留学していた人数人に昔アルバイトして貰ったことがあるが、彼らと彼女らの見解は当時ユニークで面白いものであった。遠大に解釈すれば諸橋博士の言葉に相通じて、長い年月を経ても未だ忘れ難い。

 果てしがない大海原には程遠いが、何気なく書く文章表現で多々戸惑うことがある。言葉の一つ一つに違う表現が有り、その内の幾つかを変えるだけでまた別の世界が拡がる。余程強い意志を持って言葉の海を泳がないと、どんどん違う別の世界へと押し流されてしまう。慎重に、丁寧に言葉を紡がないと、用件は足りても味も素っ気も無い言葉として瞬時に消え失せてしまう。

 相手の心に言外の何かを伝え得るか否か。そこが名文と駄文の分かれ目と心得て、敢えて漢字に拘り"時代遅れ"の文章を書く。日本人が忘れようとしている日本語の復権に、些かなりと貢献できればと考えてのことである。世界一難しいとして外国人たちを悩ませる日本語だが、英語や他の言語のように外国人教師に教わるのは勘弁願いたいと思うからである。

 日本語が次第に忘れられてゆく時代の奔流は、日常的に手紙などを書く習慣から遠ざかったことに起因するだろう。書くことの減少は考えることの減少に相通じる。熟慮する機会が失われて、短絡的に衝動に走る人間が増え続けているように思う。文章を書くことで広大な言葉の海を実感できるし、少なからず思慮・分別の類いが働く。

 日本人の特性はその無限大とも言える広大な言語を持つことで培われてきた。言葉は単なる道具では断じてない。人間の叡智が詰まった民族遺産であり、人間生活にはなくてはならぬ重要な文化である。学問のための学問と、実生活で必要最小限の道具とで事足りるとするならば、豊かで便利な時代の中身は悲惨きわまりない。

 書くことは考えることで有り、考えることは即ち生きることそのものである。人間としての存在感は、日本人としての存在感は、そこにこそあると私は思っている。