獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

ブログ一周年

 老人の気まぐれで始めたブログだが、当初利用していたヤフーブログが閉鎖されることになって現在の「はてなブログ」へ移行した。取り立てて特別の理由は何もなく、漫然と痴呆化するのだけは絶対避けたいとの願いが最大の理由である。脳の活性化に多少なりと寄与してくれることを期待して、自分を含めて人間の内面を見詰める文章を書いている。

 SNSが全盛のこの時代に、人間の内面を見詰める文章を書いても読む人は居ないだろうと自分自身で想像していた。必要であろうが無かろうが日本語独自の表現に拘り、言葉の香りや風情を感じて貰えればと微かな期待を抱きながらの1年だった。ヤフーブログの広告スペースが増えて、文章を書いたり読む雰囲気とは逆志向であるのは知っていた。

 ヤフーブログで他の人のブログを若干見させて貰ったが、SNS同様の画像の見せ合いや個人的消息のやりとりの類いが多いのに失望した。自分が志向するブログとは余りに距離が離れていると感じながら、無料でもあり惰性的に続けていることを反省していた。そんな折のヤフーブログの閉鎖だったので、有料でも広告が掲載されないブログを選択した。

 人間の心理として周囲がガヤガヤ騒がしい中で静かな音楽を聴くのは難しい。それと同様に縁もゆかりもない商品広告を見せつけられて、人間の本質に迫ろうとする文章は書けないし、読めない。若しそれが可能であるとするならば、その人は自分の感性を疑うべきだ。そう信じるがゆえのブログの移行から1年が経った。

 移行を機にヤフーブログ時代の原稿は全て削除した。移行後の現在も時々チェックして掲載後の原稿を削除して身軽にしている。現代は"読み捨ての時代"で、必要最小限に留めた短文が使い捨てされている。日本人が日本人らしい言葉や文章から離れて、用件を伝えるのみの味気ないコミュニケーションに終始している。

 風情とか余韻という繊細な感情が薄れて、用件が裸で転げ回っている観がある。グローバル化で世界が広くなることに異論は無いが、日本人が日本語に無知になる悲劇的状況だけは歓迎したくないと思っている。そんな細やかな願いを込めて毎日ブログと向き合っている。あくまで老人の気まぐれであることに変わりはなく、気が重くて関心が向かない日は無理に書かない。

 世の人が読もうが読むまいが書き手の老人には一向に差し支えない。感じたこと、思うことを率直に綴っているだけだ。世の中には万事の物事に疎い人が少なくない。同じ時代の空気を吸いながら、とても同感覚を共有しているとは言い難い御仁が結構多く居る。それらの人が一瞬なりと立ち止まり、振り向く機会になれば望外の幸いである。

 言葉や文章は単なる時代の流行であってはならないと思っている。長い時代を多くの人たちによって受け継がれ語り継がれてきた文化だ。民族特有の香りを留めているのを忘れてはならない。何も漢文学者や日本語学者のためにあるのではない。法律家のための法律という笑えない怪現象が現実に存在するが、日本語は絶対に同様にしてはならない。

 取り立てて面白い物事や文章を公開するほどの才覚がある訳ではない。況してや余命幾ばくも無い再発肺癌患者である。外出が困難であっても、酸素ボンベを積んだキャリーを引きながら性懲りもなく出掛ける無謀さはある。少しなりと時代の鼓動を感じていたいと願って、大小を問わず世の推移を見詰めている。

 人間駄目だと思えば全てが万事駄目になる。多少無理であっても意欲を持って立ち向かえば状況を変えたり、困難を乗り越えられることがある。歳だからと諦めれば、その人の人生はその時点で前へ進まなくなる。前へ進むことが出来ない人生は人生ではないと思っているので、生きて在ることの意味を日々噛み締めている。

 聴覚障害に加えて不治の眼病による視覚障害が進行した。パソコンの文字の判読が愈々難しくなってきた。そんな事情もあっていつまで続けられるか些か不安なブログである。ともあれ何とか1年を経過したことを言祝ぎたいと思う。