獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

水無月の雨

 水無月六月のスタートである。六月は前月五月の晴れ渡る語感とは違って、どんよりとした鉛色の曇り空のイメージだ。後に連なる七月の灼熱の太陽に近いにも関わらず、その真夏とは凡そ縁遠い。案の定スタートは雨になった。少し肌寒いくらいの水無月である。雨が多く水と縁が深いにも関わらず、日本語の言葉上は「水が無い月」と書く。

 遠くは農耕民族であった歴史を持つ島国の我が国だが、決して広くはない国土でも細長いゆえに多様性に富む。東西南北それぞれの地方に、その地方特有の人の暮らしがあった。人間が自分の足で歩いて移動していた時代が遠くなって、現代は自らが動くことなく瞬時に移動する時代になった。

 移動が早くて便利になると、その「早くて便利」を売り物にするビジネスが興ってその土地特有の風情が消えてゆく。早くて便利なことが果たして善いことなのか 、それとも人間生活や人間性まで変える厄害なのかの判断が難しくなる。人間生活とは誠に厄介で、しとしとと降り続くこの季節の雨さえ、都合が良い人と都合が悪い人とに分け隔てる。

 人間の都合に関係なく移り変わる自然を相手にする職業と、自然や季節に無関係な職業とで、善し悪しは大きく分かれるだろう。職業は人間の生業そのものだから、本来は生活のあらゆる部分に少なからず影響する。しかし、IT化されて直接仕事や作業から切り離されて暮らすのが普通になった現代社会では、空調で暑さ寒ささえも感じない。

 雨が多い季節は濡れるのが当たり前であった時代が忘れられている。濡れて冷たいのは不快で、理由の如何を問わず不快感は取り除かれる運命にある。雨が降らないと田畑の作物は育たない。人間が生きるための食生活に重大な影響を及ぼすのである。雨が多過ぎても、少な過ぎても、人間の生き死にに直結するのだが、それを感じる人は殆どいない。

 自然保護という言葉の中から、自分が直接動植物と命を共有することが抜け落ちている。泥まみれ、汗まみれで、傷だらけになって動植物と格闘出来るか。自身の快適な生活を犠牲にしてそれらの動植物と共に生きられるか。雨の日も日照り続きの日も、野山で作物と一緒に喜怒哀楽を分かち合えるか。

 生きるということは言葉だけでなく実体験することだ。多くの現代人は「豊かで便利」であることに慣れて、自ら生きる糧を作ることを忘れ去った。難渋を伴う作業は他人任せで、野山や海で自然と格闘することから遠ざかって久しい。手を汚さずにパソコンを介して報酬が得られるのを不自然だと感じる人が減った。

 科学技術の恩恵に浴することが当たり前で、自らの体を動かして汗を流す必要がなくなった。自ら直接手を下すことなく、得られた収穫物の品質の善し悪しを云々している。降り続く雨の中で黙々と作業する農夫を思い遣る人はまずいないだろう。荒れ狂う海で網を引く漁夫を、果たして何人の人が想像するだろうか。

 降り続く雨も、焼けるような暑さも、私たち人間の力で変えることは出来ない。甘んじて受け入れる以外方策はないのである。どんなに嘆いても、どんなに粋がっても、巡る季節は律儀だ。雨が多いのか少ないのか気象庁の予報は毎度頼りないが、人間それぞれの思惑に関わりなく雨は降る。そんな水無月のスタートである。

 我が家のベランダに"てるてる坊主"が登場する日が近い…。