獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

昨日・今日・明日

 時の流れは容赦なく速い。若い日々には時間の経過が遅く、待ち望むことが容易にやってこない印象が強かったが、不思議なもので年齢を重ねる毎に時の流れが速くなる。人間社会に何があろうとなかろうと、自然は静かだが確実に時を刻み続ける。それを人は無情だと思っても、揺るぎない自然の摂理の前に人は言葉を失う。

 我が家のベランダに迫るように広がる斜面の森に、小さな白い蝶が大量発生して乱舞している。濃い緑を覆うばかりにまるで綿雪が舞うが如き風情である。その中を慌ただしく飛び交う鳥さんたちとで、急に賑やかになった。鶯が休みなく囀り続けて花を添えるが如きで、普段は物音一つ聞こえない静かな森が巡る季節を謳歌している。

 小さな命も命に変わりはない。人間はともすると自然界に自分たちだけが生存していると錯覚しがちだが、実際に目に見えない微少な命も存在する。その一つであるコロナ・ウイルスに人間社会は翻弄された。自分たちこそ絶対だと過信して、ややもすると他の命を忘れがちだ。物言わず無心に乱舞する小さな蝶も地球上の一員である。

 過ぎ去る時の営みの中で、それぞれに短い命や長い命を輝かせる。未練や追憶を遺すことなくやがて消えていく。現在形はすべて過去形に変わってゆく宿命にある。目に見えない未来形を信じて動植物は一刻一刻を刻み続けている。希望と絶望が交錯する中で、人は夢を持ち欲望に突き動かされて生きている。

 一瞬の長短は人それぞれだ。他の動植物は迷うことなく運命を受け入れて、逆らうことなく与えられるがままにそれぞれの時間を生きている。だが私たち人間は自らの感情を重ね合わせて戸惑いためらう。それぞれに思いの丈を持つゆえに悩みが生まれて、悩みの中で幸せと不幸を噛み締める。多くの場面で喜怒哀楽がせめぎ合う。

 例え幸せであろうと不幸であろうと、過ぎてゆく時間は変わりないのである。等しく過去形に変わっていく。時間の色合いや形が違って見えるのは己の思い入れだ。そのことに気づけば、自分次第で人生が変わることにも気づかれるだろう。自然や他者の精ではない不変の摂理の中の一員なのである。

 信仰上の神仏は目に見えない。実際に存在するのか否かを確かめるすべはない。けれども否定や無視は困難だ。過ぎ去ろうとする時間も同様に引き留めることは出来ない。それぞれに良くても悪くても確実に「今日」は「昨日」になる。決して「明日」に戻ることはない。好むと好まざるとに関わらず、日々の積み重ねが人生なのである。

 無心に乱れ飛ぶ小さな白い蝶の「明日」は、蝶自身にも分からないだろう。それでも懸命に「今日」を生きている。「昨日」を気にせず「今日」を生き抜いている。無数の命が躍動する様は見ていて気持ちがいい。命の輝きは希望につながり「明日」へと連なる。過ぎゆく挽歌の哀愁を帯びて「昨日」になってゆく。

 自分自身が輝いているか。物言わぬ小さな白い蝶たちは、そう問いかけながら今日も乱舞している。