獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

移ろい去る季節の色彩

f:id:dokuan:20191114134912j:plain

 地域によってだいぶ事情が違うと思うが、東京は現在自然が最後の色彩を見せている。一際鮮やかな明るい黄色で彩った殆どの銀杏が葉を落とし、樹木は枝が剥き出しになって寂しげだが、最後の葉と思しき一枚一枚が軽やかに風に舞っている。辺り一面はさながら"黄金の絨毯"を敷き詰めた趣だ。

 8階の自宅ベランダから見える目の前の森も、半数近い木々が落葉して心持ち彩色が失われたように見える。雑木林である分だけ銀杏並木や欅並木のように一様ではなく、残っている木々の葉は哀しいほどに最後の色彩を見せて見事だ。数日後にはそれらの葉も枯れ落ちて、森の中で人知れず土に還るのだろう。

 命あるものと、命なきものとで、その色合いは大きく異なるが、命あるものは時と共に移ろいその命を燃やす。目に見えるのは色彩だが、その色彩は「命」の色だ。朽ち果てて姿が消えるまで、「命の絶唱」は続く。何故かは知らぬが「去りゆくもの」は無性に美しい。恋が終わって去って行く女性の風情だ。

 過ぎ去るものは止めようがない。止めようがないから過ぎ去るのである。季節もまた無常である。生きとし生けるものの想いを残して、何気なく過ぎ去ってゆく。次第に色合いが失われて、やがて灰色の無彩色に化す。人間は故もなく人工の色彩を帯びて、甲斐なき希望や夢に命をつなぐ。

 自然に逆らって人間は季節のない草花を咲かせている。色鮮やかであればあるほど何故か"もの哀しげ"だ。精一杯生きて命を終え、次の世代にその命を遺す自然の法則に沿って、生きとし生けるものは命を燃やす。故に節目の時は一段と輝く。人間はどうだろう。朽ち果てても骸は灰燼と化して、次の世代の栄養とはならない。

 木や草花は生きることで子や孫たちへと命をつなぐ。私たち人間はいつの間にか文明病に冒されて自然の法則を忘れ去った。驕り高ぶって野獣としての勤めさえも見失った。朽ちて次の命を育てる営みは、最早取り戻せない。自然は自分たちの思い通りになると過信して、勝手気ままに他の動植物の命を弄んでいる。

 葉を落とした銀杏も、最後の輝きを見せる雑木林の森も、太古の昔から変わらぬ営みを続けている。何も言わず語らず、降る雨に打たれ、吹く風に裸身を曝して、動かずその場に立ち続けている。悠久の時を見届けて立ち尽くす。青葉の時から紅葉の時へと色彩を変え、何かを語りかけるが如くに身を震わす。

 自然の色彩は一日とて同じではない。移ろい去って行く「憂愁」を秘めて、太陽に向き合い、雨に打たれて、風に吹かれるのである。限りある命を懸命に燃やし続けて、やがて花や葉は枝と別れる。落ち葉となっても最後まで色彩を失わず、風に吹かれて舞い踊る。森の落葉は人目を忍んで骸を曝さない。静かに朽ち果てるのみだ。

 人工の美に慣れ親しんだ人間の眼が、物言わず音も立てない自然の美に向くだろうか。商業主義の"人寄せ情報"に踊らされて観光地に群れる人の波は、心静かに満ちてくる感動を察知する感性を失った人々の、"哀れな群衆"の姿だ。半信半疑の他人の情報に惑わされ、群れて押し流されて何を得るのだろうか。

 自然は人間の欲望を受けない故に自然なのである。人知が及ばぬ悠久の時が育んだ素地にこそ、心を震わせ体を震わせる感動が秘められている。移ろい去って行く時間と情景に諸々の思いを込めて、慌ただしい年の瀬に眼と心を澄ませよう。