獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

弥生の雨

 朝からの雨脚が弱まり、春雨模様の霧雨状態に変わった。高層住宅の8階から眺める彼方は灰色に煙って何も見えない。目の前の葉を落とした裸の森に降り注ぐ霧雨が、時折吹く風に揺れて白いレースのカーテンが揺れているようだ。物音は消えて暫しの静寂に包まれている。数日違いだが、少し前の如月の雨とは心なしか風情が違うようだ。

 春は生きとし生けるものが一斉に目覚めて活動を開始する。動植物の別を問わず、それぞれがそれぞれに命の賛歌を奏でる季節だ。夏に躍動する命もあるが、灼熱の太陽は時としてけだるい倦怠を伴うので、やはり命の躍動は春が似合う。色に例えても夏は燃える赤が似合うし、春は命の芽吹きの青が相応しい。

 人間世界では弥生3月は「気が多い」と評価されるようだ。主として3月生まれの女性を言う際に、そう呼ばれる場合が多いように思う。定かな根拠は不明だが、色々な命の躍動と人間社会の移動が多いことから、いつしかそう言われるようになったらしい。女性を指して言う場合は、概して「腰が定まらない浮気性」との評価になる。

 生まれ出る時期を選べないのは全ての生物に共通するが、偶然性の結果でそう評価されることには異論もあろうと思う。弥生3月は煙るが如くに降り注ぐ雨にも似て、どこか得体が知れない神秘性をも含んでいるようだ。今日の雨脚は少し強くなったり、また弱くなったりを繰り返しているが、空模様は相変わらず鉛色の儘だ。

 こんな日は外出を控えがちだが、体が濡れるほどの雨でなければカラフルな傘を差して外に出てみるのも一興だ。何気なく目を向ける景色が、昨日までの晴天時と一転しているのに気づくだろう。天候は自然現象だが、その下で日々の暮らしを営む私達人間は、全ての物事に「不可抗力」があることを忘れがちだ。

 風情のあるなしを問わず、雨が降るのを止めることは出来ない。ごく有り触れた日常のことなのに、如何なる人智を尽くしても降る雨を止めることは出来ないのである。地球規模で見れば人間の存在は小さなものであろう。その人間である自分がさながら宇宙の森羅万象の全てを支配するが如き観念は、多分思い上がり以外の何物でもないであろう。

 弥生3月の雨は私達の心に様々な想いを思い起こさせる。「春雨じゃ濡れていこう」は有名な時代劇の名ゼリフだが、たまには少し濡れてその風情を愉しむ心の余裕を持ちたいものだと、俗世間から足を抜けない老骨はそう念じながら、降り続く弥生の雨を眺めている。