獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

時代の奔流

 「行く川の流れは絶えずして元の水にあらず」どこかでお復習した記憶がお有りになるだろう。そう言えば絶えて久しく学習する習慣から遠ざかっていることを、改めて思い出したという方も居られよう。そのいずれであっても、なくても、等しく時代という名の流れは留まらず、所々で渦を成しながら流れ続けている。

 少年期には学校で学習するものであった「時代」が、成長して大人になるにつれて身近に感じられるようになり、やがて自分もその流れに翻弄されていることに気づく。例え自分の意図する方向と違っていても、「時代」の大波は容赦なく押し流して悪びれることがない。目に見えているようで、実際に確かめようとすると洋として実態が目に見えない。

 現代は効率と利益が最優先される時代なので、不特定多数の民意が時代を形成しているとは言い難い。巧妙に計算され尽くした理性が「欲望」と結託して、巨大な資本力にものを言わせて人工的に人々の欲望を作り出す。想像を超える大河の流れは、想像を超える巨大資本のパワーで人工的に操作される時代になった。

 いつの時代にも行く川の流れは絶えないが、往時と今とでは人為の関わりようが大きく変化した。水は高きより低きに流れるが、今や時代の流れは一部の権力者の手で操作される「欲望の流れ」に変貌した観が強い。自然の理の儘に滔々と流れていた川が、人間の欲望の赴くままに突然流れを変えるのだから恐怖になった。

 豊かで便利な時代を創造した人類はそれに飽き足らず、更なる高見へとまだ見ぬ未来を思い描いている。無限と有限の違いを見失って、永遠の繁栄が目の前にあるが如く錯覚して夢中である。果てしない欲望の行く手に待ち受けるのは、虹色に輝く花園であったとしても花はやがて枯れ果てる。

 自然に対する畏怖の念を見失った人間社会に希望や未来はあるのか。地球上に我らのみが生存するが如き驕りの果てに、「破滅」が手招きしている幻が真実味を帯びることに誰も気づこうとはしない。成すことなく流れに身を任せて、明日はどこへ行き着くのか。思慮を失った時代の知性は、為政者と権力者に媚びるのみで役目を放棄している。

 その流れが急であろうと、ゆっくりであろうと、「行く川の流れは絶えずして元の水にあらず」である。過ぎ去った時間は永遠に戻らないのである。