獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

老後の人生

 毎日のコロナ・ウイルス関連報道でも、高齢者という言葉を眼や耳にしない日はない。現代社会で決して少数派ではなくなった高齢者だが、それぞれが悲喜こもごもの老後に向き合っている。若い時分には老後という言葉自体縁がない遠い世界のように感じていても、あれよあれよという間に身近になり、それが自分の人生に換わる。

 高齢者の老後は使われる言葉にもよるが、概して余り明るい響きのものは少ない。よく耳にする「人それぞれ」という言葉も、解釈次第で「自分勝手」の範疇を免れないし、「どうでも良い」との解釈も出来る。それぞれが違っていていいという解釈は、裏返しにすれば「勝手にさせてくれ」との方便にもなる。言葉は時に便利な魔法の箱になる。

 人間には基本として心得て守るべきルールもあれば、協調・連帯して努力すべき事項が数多ある。年老いて仕事を退いたとは言っても、生きることも一緒に引退したわけではなかろう。家族や親族が居れば、友人や知人もいる。五体満足であればまだしも、多くの高齢者はどう頑張っても自分一人で生きることは所詮無理だ。少なからず誰かの手助けを必要とする。

 誰かの手助けが必要だということは、裏を返せば誰かのために協調せねばならないという至って簡単な結論とルールに突き当たる。他人と協調することはまず己を知り、他人を知ることである。どこをどうひっくり返しても「どうでも良い」ということには決してならない。その程度の至極簡単な理屈が、哀しいかな年を重ねると分からなくなるようだ。

 認知症は自分には関係ないとタカをくくっていても、その認知症の始まりは自分で自分のことが分からなくなることだと、殆どの人が知っている。知っては居てもそれが自分のことだと、何人の人が気づいているだろうか。ことの大小を問わず、自分のことに向き合わなくなることがその原初である。「人それぞれ」だと嘯いて自分を誤魔化そうとする、それがそもそも認知症の始まりだ。

 自身では気づかないと思うが、自分自身のことのみならず状況認識それ自体が数年前から変化していない。毎日を生きていて何も変化しないのは、意識や認識が動脈硬化を起こしている証明だ。その状態を「生ける屍」と表現するのを、このタイプの人は自分のことだと当事者意識を持てなくなっている。他人事だと傍観している。

 人間は自分勝手な生き物だから、他人のことはある程度見えても、いざ自分のことになると見えない。自分で自分の変化に向き合うというのは、言葉で言うほど簡単ではない。時には痛みを実感し、時には血を流すこともあろう。逃げ道がない迷路でもがき苦しむことに他ならないから、誰も好んで立ち向かおうとはしない。

 何もせず安穏とした日常に甘んじていると、感性は冬眠状態から枯渇状態へと移る。それでなくても老化現象で自然消滅していく人間性と身体機能は、自ら保持しようとの努力を怠れば結果が悲惨であるのは自明の理だ。その種の自分と他人が分からなくなる認知症患者が、当節は有り余って掃いて捨てるほど居る。いずれのケースも本人に当事者意識は全くない。

 自らの人生に責任を持てないとしたら、老後の人生を放棄したも同然だ。自分はそれで善くても、そのことで多大な迷惑を被る人達が多数いる。何もせず生きているだけで、社会に大きな負担を強いることになる。諸々のことが認識できなくなれば、多分それらの根本原則も見えなくなるだろう。それが紛れもない認知症の現実だ。いち早く気づくか否かは本人次第だが、その気づくことにさえ"気づかなく"なる。

 老後の人生も自分の人生である。不感症で他人任せにしても、自身や家族が幸せにはなれないという厳しい現実をまず知ることだ。それなくして満足な老後の人生などあり得ないのである。厳しく現実を問えば、「死ぬ」ことに責任を持つのと同様に、「生きること」にも責任が伴う。自分に向き合い、自分に責任を負うというのは、ただそれだけの簡単なことなのだが、いざ実践するとなると実は途方もなく難しいのである。