獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

高齢者の高齢者的日常

 昨今は老人という言葉が余り使われず、高齢者という表現が増えた。世を挙げて老人だらけの時代になり、老人と呼ぶことがまるで差別用語のように聞こえることに配慮した結果だろう。しかしその配慮も、すぐに高齢ドライバーの交通事故や振り込め詐欺認知症という言葉を連想させるほど、高齢者の迷惑な社会現象が続出している。

 高齢者であろうが老人であろうが、年を重ねた"年寄り"であることに変わりはない。社会生活の変化や医学の進歩により人間の寿命が延びた。それが社会全体にとって良いことなのか、悪いことなのかは、それぞれの年齢層や立場によって異なると思うが、基本的に「社会の迷惑」であることに変わりはない。

 民主主義とは誠に便利で、事柄の是非を問わず多数派が主導権を得る仕組みだ。例えどんなに迷惑であろうと、数の上で多数を占めれば他の世代を上回る影響力を発揮できるのである。前の時代までは「姥捨て山」へ登らなくても、戦争などで適当に人口調整が計られてきた。現代はその調整弁がない時代なので、実に厄介な問題と化したのである。

 人間社会は時として筋道が逆転する局面を生み出すようだ。社会生活が豊かになって、医学技術も格段に進歩した。辛うじて爆発は免れているとは言え、人口増加は人間社会を蝕む要因にもなる。限りある天然資源の奪い合いや、食料の自給態勢すら危うくなる。若年世代は高齢者世代を養育するために働かねばならなくなり、人生設計が描けなくなる。

 事ほど左様に老人や高齢者の問題は社会に明るい展望を開かない。誰も好き好んで老人や高齢者になったわけではなく、どんなに努力しようしまいと等しく"年老いる"のだ。誰彼の責任では決してないのだが、けれども誰彼が責任を負わねば出口が見えない。長生きが目出度い時代は疾うの昔に過ぎ去っている。

 迷惑であろうがあるまいが、人間としてこの世に生を受けると生きる権利と義務が与えられる。条文化された制度に明確な「死」の条項はないが、その権利が与えられているとは考え難い。自分の命を自分で強制的に終わらせると、戸籍書類には犯罪的行為として「自殺」と記される。命を長らえる手法とは明らかな違いである。

 老人や高齢者は大なり小なり病気を抱えている人が多い。かく申す私もその一人だが、二つの癌手術の後には再発に備えた術後検診が欠かせない。現在もなお2ヶ月毎に通院を余儀なくされている。その他に原因不明の疾病が幾つかあり、同じく通院している。治癒困難な難聴や眼病もあり、それらの定期検査を含めると毎週病院のお世話になっている。

 これらの治療に決して安くはない医療費が費やされている。必ずしも本人が望まなくても、現代の発達した社会システムに組み込まれて生き延びているとさえ言えるのである。見事なまでの高齢化社会で、病院はどこも老人や高齢者で溢れている。外来を担当する医師は昼食の時間も取れずに忙殺されている。傍目にも気の毒に感じる位だ。

 そんな高齢社会で頻繁な病院通いの合間に、やれ温泉だの有名観光地へ繰り出している高齢者が眼につく。マスコミの宣伝に乗せられて有名店を食べ歩く「暴飲暴食」組も数多くいる。高齢者は耳が遠くなった分だけ声が大きいので、バスや電車の中や病院の待合室などは一際喧騒がひどい。特に女性高齢者は集団化してしゃべり続けるので、傍迷惑が著しい。

 長寿命が普通になった現代社会は、70歳や80歳になっても元気で外出する高齢者が多い。自分の心身が極限近くまで衰えていることに気づこうとしない無神経さで、大して重要な用件があるわけでもないのに車を運転する。それで交通事故が起きない方が余程不思議である。病院通いしながら「暴飲暴食」を繰り返す高齢者同様に、状況判断が出来ずに車をコントロール出来ない高齢者が、誰憚らず堂々と公道を走っているのである。

 現代社会は誠に寛容で、誰が見ても、誰が考えても、すぐに分かる反社会的行為を放任している。惰眠したままの立法府や司法府・行政府が放置しているのを尻目に、誰が何をしようと勝手との風潮が蔓延している。ことが起きてから後追いで大はしゃぎするマスコミに煽られて、善悪を超えた「やり得天下」の趣だ。都合が良いことに我が国の司法は、事故や犯罪の被害者よりも他人を死に至らしめた加害者の人権を擁護する。

 老人や高齢者は本来社会の主役ではない。生きること以外のあらゆることからリタイアした"隠居"である筈だ。善意で世の中を明るくすることがあっても、刑事犯や民事犯になること自体が可笑しい。身を修め、身を慎むことを心すべきだ。そのごく当然のルールやマナーがないがしろにされている現代社会は、人間としての歯車がどこか狂っていると言わねばならない。

 「自立」という言葉は自分の足で立つことのみではない。人間が人間らしい尊厳を保って生きることを意味している。それが出来ているかどうかを、時々自分に問わねばならないだろう。それが"年老い"ても、人間としての最低限の義務なのではないだろうか。その積み重ねの上にこそ、老人や高齢者の当たり前の日常が存在することに気づこう。