獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

去りゆく夏

 一つの季節が終わると次の季節が始まる。同じ巡り合いでも春から夏への移行は格別の感慨がないのに、夏の終わりと秋の始まりは何故か様々な感傷が湧く。道端に落ちている蝉の亡骸は物悲しさなしには見れないし、昨日、一昨日までの深い緑が少しずつ黄色味を帯びているのに気づくと、何か急に時の流れを実感する。

 日頃余り気に懸けない「生きている」ということが、涼しさを増した風の動きに触発されるように心に去来する。特別何かが急に変わったわけではないのに、この季節になると毎年同じような感慨を覚えるから不思議である。短くなった日足に促されるように始まる鈴虫たちの合唱は、戻らぬ夏への感傷を一層際立たせる。

 「生きている」という感覚は若い時分には余り実感がない。老いて人生のゴールが見えてくると、忽然と姿を現すもののようである。何かしらの色や形があるわけではないのに、どうしてか夏の夕暮れを連想させる。赤々と燃え尽きるように沈む太陽に、己の人生を重ね合わせるからかも知れない。

 一日一日と時間が過ぎて、昼が夜に変わることさえ当たり前だと認めたくない想いが湧く。当たり前に自分を取り巻いているすべてのものが、計算され尽くしてそこに存在しているような気になる。去って行くもの、失われてゆくものに、限りない哀惜の情を催し、自分の命が削られてゆくような錯覚さえ感じるのである。

 無限にあると思っていた時間が有限で、その限りある瞬間に「生きている」ことが実感されると、人は誰しも"空恐ろしさ"を感じるかも知れない。身が引き締まる思いとは、このことを指す言葉のように思えてくるのである。"限りある命"と人は容易く言うが、そう言う人ほど実は「生きている」という実感から遠いのかも知れない。

 諸々の感慨を想起させて夏は去って行く。老いた身には常に「最後の夏」である。点在する蝉の亡骸を無表情には見れない。失われたもの、消えてゆくものに、胸が熱くなり涙を催す。夕焼け雲と沈む夕陽も涙なしには見れない。老いて「生きている」という実感は、失われてゆくもの、消え去って行くものたちへの、限りない挽歌かも知れない。