獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

夏が来たりて

 この数日照りつける太陽の光が強まって夏の到来になった。本格的な梅雨が始まる前の"夏の予告編"とも言える自然現象で、例年この時期になると欠かさず几帳面に出現する。再発した肺癌を抱える高齢者は気軽に外出が出来ないので、マンション8階のベランダに出て戸外を歩く小さな人影を眺めている。

 小高い丘の上の8階なので下の道路を行き交う人達が小さく見えるが、それでも一様に夏の服装に替わっていることは確認できる。午後になると長い休校が明けた小学生達が元気にはしゃぎながら飛び回る様子が見えて、思わず「良かったね」と大声を出したくなる。コロナ・ウイルスの感染拡大がなければいつも通りの季節の風物詩であったものが、今年は一際鮮やかで印象的だ。

 普通のことが普通でなくなるということを、私たちは殆ど体験せずに日常を過ごしている。当たり前だと思っていたことが当たり前でなくなって、始めて些細なことの是非を感じさせられるのである。事の大小を問わずそれぞれに目に見えない多くの他人が関わり、人為的に構築されている大切なものであるかが分かった。

 人間は身勝手なもので自分が直接関わり合うものには実感が持てても、直接関わらない物事は遠くに見えるだけで感慨が薄い。体に触れて通り過ぎる風でさえ感じたり、感じなかったりする。心や感情の赴くままに自分本位に生きているのだが、普段それに気づく機会は決して多くない。気づこうとしないままに日々を過ごしている。

 普通で当たり前だった日常がそうでなくなって、奪われたり、失われたりして、一つ一つのことが自分にとってどれだけ重要で、大切であったかが分かる。青春期に在る者は自らの青春が見えないのと同様に、失われた過去形になって日常とは何であったのかに立ち竦むのだ。厄害ではあるがコロナ・ウイルスは数々の問いかけを私たちに突きつけた。

 自らに驕り高ぶって有頂天になっていた人間社会は、成すことなく立ち竦んで慌てふためいた。それは単なる遠景ではなく私たち一人一人のリアルな現実であり、私たち自身であることを認めざるを得ない。普段気づくことなく見過ごしていたことがリアルな実像に変わって、否応なく見えた自分の姿をどう受け止めるべきか。

 照りつける太陽は強烈だが、目に見えないコロナ・ウイルスも負けず劣らぬ威力を持つ。私たち個人はそれに対して何も出来ない。何も出来ない現実をどう今日の暮らしや明日の暮らしに位置づけるかが問われている。「生活の変容」が語られ、経済社会は確実に変わっていくだろう。長袖シャツが半袖シャツに替わる季節の中で、私たちが「着替える」べきはそれだけではないように思えてならない。