獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

内向きと外向きの人生

人間の生き方は大きく分けて二種類ある。内向的とか外向的と呼ばれる性格の違いもあるが、その人の意思や視点が自分自身に向いて自分主体に生きているか、或いは常に意思や視点が他人や世の中を向いているかで、同じように見えてその実は全く異なるのである。とちらが善くて、どちらが悪いということではないので、一見どうでも良いことのように見える。

 どうでも善いことなら敢えて問題にする必要はないのだが、人間と世の中はそれほど単純ではない。偽善という言葉があるように、世の中には中身と外側が全く違う得体の知れない怪物が数多く生息する。その代表例が政治で、政治家として国会に議席を得ている大半の議員は言うこととやることが一致しない。

 市場経済で運営されている社会システムも、多くの場面で他人を欺くことを至極当然の行為と公認している。「売ること」を至上命題とするがゆえに、実際の商品をそのまま提示することはまずない。事実と異なっていても、売れるという前提と予想がつけば「嘘も方便」に化ける。世の中の大勢が当然のこととして受け入れれば、「何でもあり」になる。

 選挙の時だけ有権者が喜ぶことを言い囃して、選挙が終わった途端別人になるのが政治家だと世に認識されているので、いつの間にか平然と嘘をつくのが政治家だと思われてそれが常識化している。この種の人間を外向きだと評価する人はまず居ないだろう。実際にやっていることは私腹を肥やすことで、あくまでも自分のためである。

 常に主体は自分自身で、他人や世の中を思い遣ることはまずない。他人や世の中を思い遣るポーズは示せても、当初からその根拠や確信は何もない。口から出任せに言葉を弄ぶだけである。実際の選挙で抜群の存在感を示すのは大抵この種の立候補者である。実際は招かざる客なのだが、不思議に大量得票して当選する。

 民主主義は誰にも平等なので、「世渡り上手」人間が色々な場面に登場して他人を欺く。内向き人間はというと殆どの場面で対象と向き合わない。外の世界に門戸を閉ざすかのように、他人や世の中と距離を置いて離れようとする。実際は脆くて崩れやすいのに、虚勢を張ってまで己を繕おうとする。混じり合うことを必ずしも潔しとしない傾向が顕著だ。

 世に言う芸術家タイプに多く見られるが、絶対的な自己が形成されているので妥協しない。ある意味で外向きタイプに共通するが、不思議なことに他人や世の中を思い遣ることをしない唯我独尊性は似通っている。その意味では市場経済にも通じるが、結局は本能的とも言える「自分本位」である。自分さえ善ければという"手前勝手"に行き着く。

 外向きと内向きは一見異なって見えるが、究極では人間本能に帰結するようだ。見える景色が異なっても、気持ちがどちらを向いていても、絶対的な「自己」を超えることはないだろう。辿り着く過程が違っていても、人間は最終的に自分のために生きている。生きている限り神や仏にはまずなれない。但しそう思い込むことは出来るし、錯覚して歓喜するのも許される。

 どうあがいても自然の法則を超えることは出来ないが、それを時として超えられると確信して人間は生きるのである。偽善や錯覚が必ずしも否定されないのはその辺りに由来するようだ。残り少ない人生をさてどちらを向いて過ごすかだ。