獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

何気ない日常

 普段の生活で何気なしに特別の感慨もなく見過ごしていることのあれこれも、いざそれが失われると気づいた時、或いは実際に失われてみて、始めてその大切さとか価値に思い当たるだろう。昨日まで明るく見えていた光景が一転して無彩色に見えたら、人は何を思い何を感じるだろうか。場合によっては自分自身までもが違って見えるかも知れない。

 何気ない日常とは何だろうと、改めて考えてもすぐには思い浮かばないかも知れない。だけど"日常"は誰にでもある。老いも若きも、富める者も貧しき者も、等しく"何気なく過ごしている時間"それが「何気ない日常」だ。生きる過程の歩みを止めて、改めて振り返る程のことではないと思われ、良きにつけ悪しきにつけ見過ごされている。

 私は先月まで再発した肺癌の診察のため路線バス3本を乗り継いで、隣市の大学病院へ通院していた。付添人だった老妻が突然歩けなくなって、老夫婦だけの所帯ゆえやむを得ず単独通院を半年余り続けた。多摩川沿いを走るバスの車窓から眺める景色が、点在する畑に実る赤いトマトや、藍色を濃くしたような茄子の鈍い輝きを眼にしながら、穏やかに吹いているであろう風を感じながら過ごす時間だった。

 正常な呼吸が出来なくなってこれ以上の通院は危険なので止めるよう医師に指示されて、医師と看護師が定期的に自宅へ来てくれる「訪問診療」に変わった。酸素吸入の助けを借りる生活に急変したが、それまでごく普通に感じていた日常が消えた。何気なく見詰めていた"何気ない景色"が視界から消えた。緩やかでも時に激しく揺れるバスの振動を体で感じることもなくなった。

 自宅へ届いた真新しい介護ベットに身を横たえ、酸素吸入装置を装着しての新しい日常がスタートした。かなりの労力を必要とした通院に比べて、あらゆる面が労力不要の快適と言えば快適な生活だが、バスの車窓を流れ去る景色の彩りはない。当たり前で普通だった日常の景色が、突然私の前から姿を消した。

 苦しい呼吸に耐えながらの通院のどこにロマンがあるかと他人は言うだろう。どこにでもある普通の景色に残る未練を理解する人は少なかろう。日常性とはその程度のごく有り触れた"あれこれ"である。失われようとしている耳の聴力に抗して、僅かに感情を揺れ動かして消え去るシューベルトブラームスピアノ曲にも似て儚い。

 聴力が乏しい耳に届く楽曲に身を委ねながら、昇る朝日に輝く房総半島の夜明けやオレンジ色の夕陽に染まる湘南の海に想いを馳せている。佐渡の海に沈む夕日も忘れ難い。何気なく過ぎていったそれらの一つ一つが私の日常であった。胸を熱くして涙が流れ落ちることが屡々あった日常こそ、他ならぬ私の人生であった。

 何の変哲もなく過ぎていく日々の暮らしは、過ぎ去って改めてその大切さに気づかさせられる。人生とはと考えなくても毎日の暮らしは訪れて、そして去って行く。その何気なさこそ人生であり、その集大成が時代となって歴史を形成していくのだ。少しだけ心を解放して、通り過ぎる風や、去って行く時間の"肌触り"を実感しよう。