獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

命を削り命を見つめて

 人間生きているということは実に不思議なことだ。健康で溌剌とした毎日を送っている人は多分気づかないと思うが、鼓動は刻一刻と迫り来る「終末」へと向かって、死へのステップを踏み続けている。重篤な癌を患い幸運に生き長らえたとしても、いつ何時訪れるか分からない「再発」の影に脅えなければならない。

 癌の再発を告知されてその詳細を知るために、最新の高額なPET検査台へ横たわる気分はお世辞にも愉快とは言えない。ゴトゴトと音を立てる検査機器を見据えながら、無機質な白い機械の向こうに己の命を見つめている。姿や形は見えずとも、何やら薄ぼんやりとした長いようでもあり、短いようでもある、得体が知れない不気味な影を見ている。

 人間はその命の終末「死」を見た時に、始めて命の存在に気づくような気がする。生きているのが当たり前で、健康であるのが当たり前だと思っていた日常から、足音もなく近づく「死」を意識した時に、改めて自分と向き合わざるを得なくなる。人知れず刻一刻と終末へ向かっているリアルな自分と出会うのである。

 得てして人間は現実を見たがらない。余りに冷酷で無残である命の営みから目を背けようとする。どう否定しようと現実は現実で、それ以上でもそれ以下でもないのだが、例えそうだと気づいても尚も否定しようとする。他人にではなく、自分で自分に言い訳して、何とか事実を否定する理屈を考えようとする。「無理が通れば道理が引っ込む」その無理を懸命になって探している自分が居る。

 例え道理が合おうが合うまいが、そんなことはどうでも良くなる。少しなりとも現実から遠ざかり、自分の命に嘘をついてでも何とか誤魔化そうと必死になる自分が居る。それで誰かが救われる訳ではない。自分を含めて誰も救われないのに、それでも必死になって道理が合わない理屈の道理を合わせようとする。

 科学は非情である。人間の思惑など一切関知しない。事実を事実としてあるがままに提示し、突きつける。どう泣き叫ぼうが終えようとする命を引き留めることは出来ない。命を見つめることはそういうことだ。どう足掻いても日々削られていく命の鼓動には抗しきれない。ただそれだけのことだ。